「十一月の雨」 作) 琴美 南向きの窓辺に寄せてある籐細工の椅子に腰掛けて、カーテンを開け放した窓の外を眺める。今日も十一月の冷たい雨が朝から降り続いている。低く垂れ込めた空はほの暗い雲に一面を覆われている。 私は膝の上に乗せたティーカップをそっと持ち上げて、暖かいミルクティーを一口だけ口にする。カップの温もりが掌に残る。 雨が降る度に私は「彼女」と「彼」の事を思い出す。彼女にとって唯一の「親友」であった私が……そうであったと自分で信じ込んでいた私が、結局は彼女を救う事が出来なかった苦い過去を。 再びティーカップを膝の上に乗せて、微かに聞こえてくる雨音に耳を傾けた。 ――今頃、彼女もこの雨をどこかで眺めているだろうか…… 彼女はある日、忽然と私の前から姿を消した。それからは連絡の一つも無い。今、どこでどんなふうに暮らしているのか見当もつかない。 最後に会ったのは――彼女のあの出来事に関する最後の出来事を語り合った日だ。あの時彼女が見せた私の知らない微笑。孤独な一人の女性の、砕けた硝子の微笑。 あの時に、私は気づくべきであった。彼女がどんな思いを抱えていたのかを。そしてそんな彼女に手を差し伸べる事が出来たならば、あのような消え方はしなかったのでは無いだろうか? 再びカップを口元へと運ぶ。そして、その手が止まった。 このカップは彼女から誕生日プレゼントとしてもらったものだった。私が彼女をまだ「親友」だと信じて疑わなかった頃の、最後のプレゼント。持ち手の細い、白地に淡いブルーの花模様が描かれている、彼女のお気に入りでもあったティーカップだ。 ――私も同じものを持っているのよ 彼女はそう言っていた。それが彼女からもらうことの出来た最後のプレゼントになるなど思いもしなかった。 複雑に絡み合った蔦と薔薇の模様を見つめる。まるで彼女と彼の出来事を絵にしたような柄である。 私は彼女の過去へと思いを寄せる。孤独で、本当は誰よりも弱く、そして誰よりも壊れやすい硝子の心を持った彼女の事を…… 彼女は社内では「氷の女」と噂されていた。しかし、彼女の事を良く知らぬ男性たちは「魅惑的な小悪魔」と呼んでいた。そして、彼女の表面ばかりを見る者は「男好きの女」と、誰もが勝手に彼女を評した。だが一番哀しい事は、彼女の本当の姿を理解していた者が、理解出来た者が誰一人いなかったという事だ。私を含めて…… そんな彼女が私だけに語ってくれた、哀しい出来事。その全容を今でも私は完全には理解する事が出来ないのだが、それでも思い出す度に哀しくなり、もどかしくもなり、多くの憎しみを覚え、そして何故あんな事をした彼女を止められなかったのかという自分への後悔がつのる。 事の始まりは、彼女と最後に会った日から数えて十年ほど前になる。 彼女はある日、罪を犯した。同僚であった一人の女性を裏切るという罪を。 その話を初めて私に語ってくれた彼女の「若かったからこそあんな怖い事が出来たのかも知れない」と、遠い過去を見つめる眼差しで、淋しげな表情を浮かべていた姿が印象的だった。 それが純愛だったのかどうか、本当に「恋をしたのか」、本気で「愛したのか」、当初の彼女は自分でも解らなかったのかもしれない。 二人の関係が、結局はどんな意味を持っていたのか。もし、彼女を探し出すことが出来てそれを聞いたなら、彼女は再び「氷の女」の仮面を被り「擬似恋愛だったんでしょ」と、冷めた口調で言うのだろうか。 それともただ黙り込むだけだろうか。 いや、やはり私には想像することが出来ない。現在の彼女の言葉や思いを。 私は更に深くあの頃へと思いを馳せる。彼女が罪を犯した遠い昔へと…… 当時、まだ彼女は二十代前半の年頃であった。 彼女は、毎夜のように一軒のショットバーへと通い続けていた。 そこでの彼女は「魅惑的な小悪魔」なのである。そして彼女は「狩り」をするのだ。 ジンをロックのダブルで飲む若い女性という存在に様々な興味を抱く男性客の数は少なくは無かった。 淡いブルーで統一された小さな空間の中では、彼女は決して自分の事は語らない。話しかけられれば、聞き手となり、相手が望めば、その望みを叶えるための微笑を浮かべる。 彼女は多くの「微笑」を持っていた。「優しげな微笑」「けだるそうな微笑」「慈悲深い微笑」「知的な微笑」それらをその場に応じて使い分けるのだった。 しかし彼女の微笑は「狩り」の手段の一つでしかない。自分の浮かべる「魅惑的な笑み」がどれほどの威力を持つ「武器」であるかと言う事を彼女は熟知していた。だからこそ、それは偽りの笑みなのだ。戯れのための笑みなのだ。 ある男が彼女のシートに一つの空間を開けて座る。それはその男の常なのだ。 ――今日もジン? 馴れ馴れしそうに語りかける。 ――悪いかしら? 娼婦のような笑みを浮かべて問いかける。 真紅に近いワンピースからのぞく美しい鎖骨の線が良く見えるように肩をすぼめて。 ――いや、貴女にはお似合いだよ ――そう? ありがとう そして彼女は再び微笑む。男に、その言葉が彼女を満足させたと感じさせるための偽りの静かな微笑。 別の男が言う。彼女の隣で囁くように、そっと肩を並べて。 ――今日は車で来たんだ ――なら、お酒は飲めないわね。それなのにどうしてここへ? 驚いたように目を瞠る。タイトなスカートからのぞく組んだしなやかな脚を組み直しながら、片肘をカウンターに乗せて身体を男へ向ける。華奢な肩のラインが強調されるように。細く柔らかな脚が男の太ももへ触れ合うほどに。 もちろんこれも計算された演技だ。 ――今日は君を自宅まで送るつもりでいたからね ――ナイトのつもり? でも嬉しいわ 彼女は男の横顔を覗き込むようにして見つめる。目が合えば、小首を傾げながら上目遣いで微笑む。細い首の、その肌理の細かい肌が一番よく映える角度で。そして、そんな彼女の笑顔を見ると男は誇りを感じる。 また別の男が言う。あくまでも紳士的な態度を崩す事無く。 ――毎日そんなに飲んでいるけれど、何か嫌な事でもあるのですか? ――嫌な事がなければ、お酒を飲んだらいけないのかしら? けだるそうに彼女は問う。長く艶やかな髪をうなじで払い落とし、背中の大きくくり貫かれたワンピースから彼女の細く華奢な背中が男に良く見えるようにして。 ――そんな事はありませんよ。貴女に会うために私もこうして、出来る限り通っているのですからね そして彼女は淑女の笑みを浮かべる。二重の大きな瞳が男を捕らえて離さない。 ――お上手ですわね。何がお望み? 男が答える事が出来ないと知りつつ、彼女はまるで悪ふざけのように問いかける。 そうして店での戯れが過ぎると、その晩の彼女を独占する事の出来た男は、彼女を駅まで送り届ける。その次に展開される物語を胸に秘めて。 しかし、一度店を出れば彼女の仮面は「氷の女」へとすり替わる。 ――じゃあ、また 素っ気無くそれだけ告げて、改札口で冷酷にも男から離れていく。それまでのやりとりなどまるで何も無かったかのようにして。 車で送るという男も数人いた。しかし、そんな時でも彼女は自宅までは寄せ付ける事は無い。必ず自宅からしばらく離れた場所で車を降りるのだ。隠された下心を見抜かれないよう、男たちは精一杯紳士的に振舞う。 ――送ってもらえて助かったわ。今日は少し飲み過ぎたから。それじゃあ、また 次の期待を抱かせるように、彼女は小悪魔の微笑を湛える。ほんの一瞬、助手席で男にしなだれかかるようにしてバランスを崩す。これも演出の一つだ。 そうして彼女は車を降りると再び「氷の女」となって不敵な笑みを浮かべる。「嘲り」と呼んでも過言では無いかもしれない。車で彼女を送ろうとする男の存在は、彼女にとってはタクシーと同異なのだ。 それでも彼女に魅了される男性は年齢を問わず、彼女の微笑の虜となる。もちろんその裏側に何かしらの「期待」がある事も彼女には手に取るように解るのだった。 そうした男たちの「期待」を知った上で、彼女は微笑み続ける。そして心の中では嗤っているのだ。 雨は降り続いている。先ほどよりも、垂れ込めた空が暗くなったようだ。この分ではまだまだ降り続くだろう。 雨足は更に強くなったようだ。向かいの家の屋根には、降りつける雨の勢いで、まるで沢山の小人が立っているように見える。 暖房の切れた部屋が冷えていく。私はほんのり温いカップを手にして窓の外を眺め続ける。 私はあの頃の彼女にどんな感情を抱き、親友としてどんな態度を取っていたかを振り返る。その度に私は自分を責め続ける。後悔ばかりが繰り返される。 一度私は彼女に訊ねてみた事があった。 「そんなふうにとっかえひっかえするようにして、毎晩男性をたらしこんで、何が楽しいの?」 その言葉は、彼女に「そんな無意味な事は止めろ」と促すものではなく、単なる批判だった。それでも彼女は動ずる事無く、 「良いじゃない? 彼らが好きでそうしてくれているんだから。私から誘ってるわけでもないもの」 そして、彼女は続けたのだ。「氷の女」の顔をして……とても冷たい声で。 「騙されるほうが悪いのよ。馬鹿みたいだと思わない?」 彼女は知っていた。自分の際限の無い魅力を。その魅力は、男性に媚びるものではなく、けれど「今しか出来ない戯れ」を堪能するためだけに存在するものなのだと。 そうと知っているからこそ、彼女はその「武器」を使いこなしていた。年齢不詳、職業不明、名前すら教えない、そんな小悪魔に男性たちは惹かれていた。「いつか彼女を自分の手に入れてみせる」と確信して、彼らは彼女に甘く囁き続けていた。 甘い囁きには、甘い言葉と微笑を。紳士の語る慎ましやかな言葉には、礼節を踏まえた姿勢と知的で美しい旋律を。 そんな彼女でも、一つの掟を持っていた。 ――誰にでも簡単に身体を売り渡したりはしない どんなに彼女が満足げな表情を浮かべていても、どんなに彼女が幸福そうな笑みを浮かべようとも、彼らには指一本触れさせることは無かった。そうすることが、男性たちに更に拍車をかけるようにして、彼女への欲望をかきたてるかという事も承知の上であったのだ。 その一点においては、私は感心していた。男性たちに叶わぬ夢を抱かせ続けるという言動は抜きにして。それでも、私が彼女に伝えた言葉は通り一遍の言葉でしかなかったのだ。 「そんな事ばっかりやってると、いつか必ずしっぺ返しがくるよ」 単なる説教だ。親友としての言葉ではない。本当に「親友」だったならば、他の言葉を探すべきだった。別の方法で彼女の毎夜繰り返される戯れを止めさせるべきだった。 しかし、私はそうしなかった。出来たことは説教だけ。そんな私の姿は、彼女にはどう映っていたのだろう。共に誕生日のプレゼントを交換するほどの仲だったのに――言い換えればそれだけの仲だったとも言えるけれど。 カップを持つ手が震える。あの頃の自責の念とあらゆる後悔が入り乱れて、今にも涙が溢れそうになる。私の前から姿を消してしまった彼女の現在を思うだけでも時折涙が溢れて止まらなくなるのに。 彼女の戯れが絶頂期だった頃、私は彼女と二人だけで小さな居酒屋で飲んだ事があった。その時、彼女が酔った勢いで独り言のように語った事がある。 ――私は誰かから本気で愛される事は無いのよ ――誰もが私に甘えるばかり ――本当は、見抜かれているのは私のほうかもしれないわね。上辺だけの女だって事 ――愛し方を知らないのよ。だから誰からも愛されない。別にそれでもいいわ…… ――今さえ楽しければ、それで良いじゃない? 自嘲気味にそう語った彼女。その言葉が毎夜繰り返される「戯れ」の理由だったかどうかは解らない。しかし、彼女にそう言わしめるためには、それなりの何かがあるとは思うのだが、その時にはそれ以上は語ってはもらえなかった。そして今もその理由を私は知り得ない。 私はカップを膝の上に置いたまま瞼を閉じる。 結局私は彼女の事は、ほとんど何も知らなかったのでは無いか……。親友だ、親友だと思っていたのは私の一方的な押し付けだったのだ……。 そんな彼女が「彼」と恋に落ちるなど、私には信じられない出来事だった。本当は、世の中全ての男性を忌み嫌っているのではないかとも思えたほどの彼女が、まさかあのような恋愛に走ってしまうなど、私にとっては青天の霹靂であった。 そう思った事こそが、やはり私が彼女を理解出来ていなかった証でもあるのだろう。 あんな「恋愛」へと走っていった彼女が、その出来事を私だけに語ってくれたあの頃を、私は再び思い出す―― 彼女は「彼」と出会った当初から、何かを感じていた。それは彼女独特の直感でもあり、裏を返せば彼女の魅惑的な雰囲気を「彼」が素早く察してしまったという事でもあるのだ。 事の始まりは、彼女と彼が所属していた会社も出展していた、とある三日間に渡るフェアであった。そこからが「彼女」と「彼」の罪と悲劇の始まりとなったのだ。 彼には、彼女と同期入社である恋人がいた。しかし、そのフェアに参加するメンバーに、その恋人は含まれてはいなかった。それも恐らく悲劇の一端を担っていたのだろう。 フェアの二日目になる頃には彼と彼女の親密さは、すでに静かな加速を始めていたといいう。 そんな折、フェアを見学するために彼の恋人がやって来た。その時、その恋人も彼が彼女へ向ける視線や態度に不安を抱いていたらしい。恋人は彼女の「氷の女」の顔しか知らない。彼の恋人にとっては「ただの一人の同僚」としての彼女。その彼女が、自分の彼へ「小悪魔」の顔を見せている――恋人の見知らぬ彼女の顔である。恋人にとっては、そんな彼女の姿は、全く未知なる存在であり恐怖すら感じた事だろう。 それでも彼の恋人は、不安と疑心を抱えたままで社へと戻って行った。彼はその後姿を見送る事さえしなかった。 都内の展示会場で開催されたフェアに参加するメンバーは、近くのビジネスホテルで宿泊する事を余儀なくされていた。 泊りがけのフェア――当然のごとく、夜になればメンバーの誰かの部屋で酒宴が始まる。そんな三日間の最後の夜であった。 年配の男性社員の部屋に集まっていたメンバーが一人減り、二人減り、やがては彼女と彼だけが残る事になった。その部屋の主は、既にソファで深い眠りについてしまっていた。 困った顔に、複雑な笑みを重ね合わせた表情の彼が、余った日本酒を手にして、 「私の部屋で飲みましょうか」 と言った。彼は既に彼女の「魅惑」に取り憑かれていたのだ。 そんな彼の思いを本能で感じる事のできた彼女は、彼女ならではの微笑を浮かべて彼の部屋へと向かった。そんな仕草が、彼女が「魅惑的な小悪魔」だの「男好きの女」と言われる所以であったのだろう。 ――「これ」と決めた男は狩る―― 彼女は「小悪魔」などではなく、本物の「悪魔」だったのかもしれない。その話を聞いた時、私は鳥肌が立つのを感じた。同じ女として、ほんの少しの憧れと嫉妬を抱きつつ。 彼の部屋に辿り着いた後は、二人並んでベッドを背もたれにして、床に両膝を立てたまま座り込んでいた。 余った日本酒を、ホテルの備品である飾り気の無いグラスに注ぎながら、酔った時にしか笑えない話で、享楽的に笑い続けていた。 一通りの話題が尽きると、ほんの少しの沈黙が落ちる。 彼は、それまでにない静かな声で彼女に言った。 「彼氏とは、うまくいってるの?」 その頃、彼女には「結婚を前提とした」恋人がいた。そこには、彼女に言わせれば、「一応」という前書きがついていた事は言うまでもない。 「さぁ。どうだろうね。そっちこそ彼女とは、うまくいってるの?」 彼女は、グラスを揺らしながら魅惑的に微笑み、輝く髪をかき上げながら問い返す。 「さぁ。どうだろうね」 彼は何かをごまかすような、それでいてとても静かな笑顔を見せながらも、彼女のほんの少し乱れた髪を優しくなでながら答える。 そして、ゆっくりと見つめ合った二人は、お互いに笑い合った。それは静かな笑いだった。夜の帳の中で誰にも聞かれないように、こっそりと…… 結局その夜は一晩中、彼女は彼の部屋で過ごした。 ただ純粋に、人生や恋愛について語り合って時を過ごした。 朝の光が窓から漏れる頃には、 ――彼に惹かれている―― 彼女は確信した。 そして、彼は…… ――逃げ場を求めている―― それも目に見えるような確信であった。男を狩る事が出来る者だけの持つ直感で悟る事が出来たのだ。 それでもやがて二人は、二人だけが知る、純粋で穢れ無き「二人だけの秘密」を持つようになっていった。 彼女が何故、彼に「惹かれている」と感じたのか、どうしても解らない。けれど、これも想像の域を出ないのだが、彼は彼女の髪に触れた。「指一本触れさせない」という掟を持った彼女が、彼にそれを許したのだ。 私は思ったものだ。ひょっとしたら二人は「似た者同士」だったのかもしれない……と。 ホテルの一室で過ごした夜、彼の浮かべた微笑が彼女の中の何かを打ち砕いたのかもしれない……と。 愛する事の本当の意味を知らない、孤独な似た者同士。 私は楽観視していた。彼女の事だから、これも一つの戯れとして考えていくのだろうと漠然と思っていた。その時には、その後に待つ不可解な展開は予想も出来なかった。 私は、すっかり冷めてしまったミルクティーの残りをそのままに、カップを手にしてキッチンへ向かう。 この思い出を自分自身の中で再現するには、やはり温かな物が必要なのだ。彼女の身の上に起こった出来事が冷た過ぎるから。凍えるほどの寒さを感じるから。 ティーポットから温かなミルクティーを注ぎこむ。カップを両手で包み込み、冷えた身体を温める。 あの後に起こった出来事を考えると、私は震えるほどの怒りを覚える。彼は彼女に「恋」をしたのか。たとえ彼の気持ちが本物だったとしても、その後の彼の言動により彼女がどれほどの痛手を受けたのかを思うと、どうしても私には彼が許せないのだ。何年経とうとも。 ――哀しかったでしょう。辛かったでしょう。どうして本当の気持ちを言ってくれなかったの? 私は何度も何度も心の中で呟いていた。何故、言葉に出す事が出来なかったのだろうという後悔と共に、彼女が姿を消して以来、私は毎日のようにそう呟くのだった。 キッチンから戻り、再び籐の椅子へ腰掛ける。降り続ける雨。この雨は彼女が流したくても流せなかった涙ではないのだろうか……いや、そう思う事で私は自分を許そうとしているだけなのだ。彼女の思いを美化する事で、彼女の苦悩を解ったつもりになろうとしているだけなのだ。 私はこの雨が憎い。あの日、あの雨の降る夜さえ無ければ、彼女は違う人生を歩めただろうから。 あの雨の夜―― フェアが終了した後からは、二人の関係がそれまでと違った形になった事は、誰の目にも一目瞭然であった。当然、彼の恋人にも同じように見えていた。しかし、二人は暗黙の了解であるように、彼の恋人の思いに見て見ぬふりをしつづけた。 ある夜、彼と彼女は同僚二人を連れて、馴染みの居酒屋へ足を運んだ。 テーブルを挟んで座った二人は、時折意味ありげな視線を交わす。そんな密やかな「恋愛ゲーム」を楽しむかのように。 彼女が化粧室から出てくると、そこには彼がいた。 しばしの間、狭い通路で二人向き合うようにして壁に寄りかかって見つめあう。すると、 「本当は、今日は貴女と二人で飲みたかったんですよ……」 彼は、俯きながら小声で呟く。「その言葉」には嘘や偽りは感じられなかった。 彼女の脳裏で、理性と本能の闘いが一瞬のうちに行われた。そしてその一瞬の後に彼女は理性を取った。 ――やはり、あの子を泣かせるような事は間違っている。しかも、彼は本気で恋をしているわけではない。何かから逃げるためにこうしているのだろうから そう考えた段階で、彼女にとっての「恋愛ゲーム」は破綻していた。彼女自身が「彼に惹かれている」と感じた時から既に破綻の一端が顔を覗かせていたけれど。 しかし「男を狩る女」の「恋愛ゲーム」では済まなくなっているこの状況は、彼女の意図したものでは無かったはずだ。 彼女自身、いつしか「男を狩る」事を忘れ、この「恋愛ゲーム」を楽しんでいた。彼女にとってはあくまでも「ゲーム」だったはずなのだ。彼の恋人を苦しめている意識すら棚上げにしても構わないくらいの単なる「恋愛ゲーム」だったはず。 しかし、ゲームと思いながらも彼女の心は彼女の意思を背いて彼へ傾いている事は紛れも無い事実だった。 彼女は席へ戻ると一足先に店を出て、そこから数分の場所に位置する、「狩り」の場へと向かった。あの店へと。 いつもどおりの淡いブルーで統一された小さな空間。そこで彼女は別の仮面を被るのだ。「魅惑的な小悪魔」の仮面を。そうして再び「狩り」を再開すれば、ゲームを終わらせる事も出来るだろうと思っていた。 その店で彼女にいつでも様々な甘い囁きや、あの手この手を使って彼女の興味を引こうとする、顔見知りの「見知らぬ男性」から「魅惑的な小悪魔」として扱われる事によって、彼の恋人を裏切る事無くゲームを自然に消滅させる事が出来るかも知れない。 男たちの彼女へと向ける淡い恋心と、それに伴う畏怖すら抱く姿を観る事で、彼女に「狩り」の楽しみを思い出させてくれる。そうすれば「恋愛ゲーム」を止める事が出来ると信じていた。 けれどその日に限って、珍しくそんな男性客の姿は誰一人見かけることが無かった。 店の一番奥に位置する、緩やかな曲線を描いた木製のカウンターの「指定席」で、彼女はお気に入りのジンのロックにレモンを落とし、その香りを楽しみながらも、これまでの、ほんの短い期間での彼との出来事を反芻していた。その反面で彼の恋人の事も考えてしまう。 ――このままではいけない あの子を裏切る事になる。いや、すでに裏切っている。 そして自分自身さえも…… 彼女は深い思考へと沈んでいった。「彼女自身の恋人」の存在を忘れている事を。その「彼女自身の恋人」への裏切りを。 ――自分も逃げ場を探しているのだろうか……それとも…… この時の彼女は「魅惑的な小悪魔」では無かった。「本来の彼女の素顔」だった。「ピエロ」としての男たちのいない空間だったからこそ、彼女は仮面を被る必要を無くした。 様々な思考を繰り返しているうちに、いつしか外には霧雨が降り出していた。 残ったジンを一息に飲み干すと、彼女は店の扉を開けて外へ出る。 大振りの青い花模様の傘を開いて、昭和通りを渡る交差点へと歩みを進めた。 その時視界のほんの片隅に映ったものがあった。 彼だった。 既に閉店時刻を過ぎた蕎麦屋の店先のシャッターの前に、半分スーツを濡らしながら彼が立っていたのだ。 彼女は慌てて歩み寄り、 「どうしたんですか?」 と、傘を差しかけながら問いかけた。そんな彼女に彼は、とろけるような笑顔を見せて、 「待っちゃいました」 と言ったのだ。 「貴女が、あの店に行った事は想像出来てはいたんですけれど、扉を開ける勇気が無くてね」 いつ戻るかも解らない彼女を冷たい雨に濡れたまま、彼はずっと待っていたのだ。 そんな彼の、儚い笑顔に彼女は自分の思いに気づいてしまったのだ。 ――やはりこれはゲームなんかじゃない……私は…… もし、あの雨の夜の出来事が無ければ。彼があんな言葉を彼女に言わなければ、彼女はもっと楽に生きられたはずだ。 彼女は知っていたのだから。彼が「逃げ場」として彼女を利用していた事を。そこまで冷静に判断出来ていた彼女の心を引き戻し、挙句にその手を冷酷なまでに突き放した彼。最後まで身勝手だった彼。 カップを握る手に力がこもる。震えるほどに怒りをこめて握り締める。 私はやはり、彼を許す事は出来ない。憎い。思い出すだけでも、思い出す毎に憎しみが増していく。 確かあの夜から数えて三日が過ぎた頃だったはずだ。彼の恋人が彼女へ、あからさまと言えるほどの敵意をむき出しにしはじめたのは。 ――当然の事でしょ。だって、あの子から彼を奪おうとしていたのだから 彼女はそう言っていた。そしてその仕打ちを静かに受け入れていた。 私はその時、勘違いをしていた。その仕打ちを受ける事で、彼女と彼は離れていく。そして、もう二度と彼女がその「恋」に煩わされる事は無くなると。 たとえ「氷の女」の仮面を被る事で、その仕打ちに耐えなければいけないという事実があったとしても、時間が経てば忘れられるはずだと思い込んでいた。 けれど、現実はそんなに簡単なものでは無かった。あまりにも皮肉な出来事が、長年に渡って彼女を苦しめ続けて行く事になるなんて……惨すぎた。 当時誰かが言っていた。確か彼の友人ではなかっただろうか。 ――彼は恋人と別れたがっているみたいです。でも中々言い出せないみたいで その「逃げ場」として彼女は利用されたに過ぎない。なんと身勝手な……けれど…… 私が彼女を支えて上げられなかった事が一番の後悔なのだ。ほんの少しではあるものの、私のほうが年上なのだから。彼女の辛い思いをもっともっと聞いてあげるべきだった。私が本当にすべきだった事は「説教」などではなく、彼女の心の叫びを聞く事だったのに、私は結局他の多くの者たちと同様に彼女の表面しか見ていなかったのだ。 そう考えると、更に私は自身への苛立ちを覚える。 その苛立ちをおさめるように、私は熱いミルクティーを喉へ流し込んだ。 そして、最も憎むべき出来事と、その後の彼女の変化を私は思い出していく―― 異変は突然訪れた。二人の関係が突然形を変えた時と同じように、全く別の形へと姿を変えたのだ。今度は、彼すらも彼女を避け始めるようになったのだった。 最初のうちこそは、自然な避け方であったが、日々を重ねる毎にそれは悪質とも呼べるほどの態度へと変わって行った。 彼女は気づく。 ――やはり彼は、恋人を捨てる事など出来はしなかったのだ…… ある日、彼女は言った。苦笑いを浮かべながら。 「あの言葉を思い出したわ」 ――いつかしっぺ返しがくるよ と言った私の言葉を。 そうして、苦い哀しみを押し殺しながら、瞬く間に二年が過ぎた。その二年を彼女は「氷の女」を撤する事によって、彼女自身の苦悩を、彼女の周囲の人間をごまかし続けた。 やがて彼は転職する事になった。近々行われる彼の送別会の予定も立てられていた。 その頃の彼女は再び「狩り」を再開し、珍しく手頃な「獲物」を手に入れていた。しかし獲物を手に入れたとしても「掟破り」をする事は無かった。苦々しくも、彼女の「魅惑的な小悪魔」の復活であった。 彼の送別会が開かれた夜、「獲物」となっている事に気づかない新たな「男」は、 「辞めていくやつの送別会なんか行く必要はないよ」 と言い放ち、彼女はその「男」と二人で一晩を飲み明かして過ごした。 私はあの二年、彼女が「狩る女」として生きていた事を否定出来ない。そうする事でしか、自分自身を保つ事が出来なかったのだろうから。だから私は、何も言わなかった。 しかし、それは間違いだった。あの二年の間こそ私は彼女を支えるべきだった。「狩り」などに夢中になるよりも、もっと違う別の何かを見つけさせてあげるべきだった。彼を糾弾する事だって出来たはずだ。なのに、私はそれをしなかった…… 彼女に追い討ちをかける様な出来事は他にもあった。以前の彼女の本当の恋人の存在だ。私は聞いた事がある。 ――彼氏とはどうなってるの? ――もう、ずいぶん前に別れた。今では結婚してるって そんな悲しい話を彼女は自分から私に伝えようとはしなかった。やはり彼女は私の事を本当の「親友」だとは思ってくれてはいなかったのだ。 どこまでも浅はかだった私は、更なる誤解をしていた。その後の出来事を語った彼女を「強い」と思い込んでいたのだから。二年の間で彼女は成長しただなんて喜んですらいた。笑うしか無いとはこう言う事だろうか。 彼の送別会が開かれる前から、彼女のパソコンはネットワークに接続出来ないというトラブルを発生していた。そんな事も知らず、彼は彼女に最後のメールを送った。 そのメールを読まされた私は、彼の正気を疑った。どの面を下げてあんなメールを送りつけたのだ? そのメールを読んだ彼女が喜ぶとでも思ったのか? あのメールの内容は十数年経った今でも忘れはしない。一言一句覚えている。彼女を利用し、最後には斬り捨てた彼の、いや、あの男の卑劣極まる文章を。 「貴女には、本当に酷い事をしたと思っている。本当に申し訳ない。けれど、彼女はあれ以来毎晩のように、貴女と私が一緒にいる夢を見て、泣き叫びながら目を覚ますらしい。そんな彼女をやはり私は捨てる事が出来ない。だから私は彼女を選びます。貴女ならきっと、私よりももっと相応しい男性と巡り合う事が出来るでしょう。そして、最後に、本当に卑怯だけれど、貴女は今日の送別会には来ないで下さい。彼女が不愉快になるから。最後だけは、楽しい思い出を残してこの会社を去って行きたいのです」 結果として、そのメールを彼女が読む事が出来たのは、彼が退職してから二週間後の事であった。 ――これで良かったのだ。彼との事は、ほんのひと時の夢で終わらせるだけで…… そう自分に言い聞かせた彼女は、そんな彼に優しく応じた。その優しさを私は「強さ」だと錯覚したのだ。 彼女は彼に、短いけれど優しさをこめた手紙を書いた。 「どうか、貴方の恋人といつまでもお幸せに。そして、私との事は、一日も早く忘れてください」と。 その手紙は、彼の友人に託され「あの子には絶対に知られないように渡して下さい」とお願いしたという。 それからしばらくは、彼女の行動も落ち着いていた。毎夜店へ通う事も無かった。憤りを見せる事も、涙一粒流す事も無く、不気味な静けさを保っていた。 だが数日後には、彼女は再び「魅惑的な小悪魔」を演じ続ける自分の姿を取り戻してしまった。 情けないほど浅はかだった私は「彼女は結局なんとも感じていないのか?」という、半ば呆れた気分になった。彼女は全てを、ゲームとして割り切っていたのだと。 しかし今だから解ることだが、あれは彼女なりの「自己防衛」だったのだ。そうすることで、彼女自身の心を守ろうとしていたのだ。決して彼女は強くなどは無かったのだから。 このように当時の彼女の姿を思い浮かべる度に、私は悲しくなるのだ。理解してあげられなかった自分が情けなくなるのだ。 空になったティーカップに一粒の涙がこぼれた。 次に待ち構えていた更なる悲劇を思うと、私はいつでもこうして涙を流すのだ。 その悲劇とは―― 時は経ち、再び社を去る者が現れた。送別会が開かれた夜、そこへ彼がやってきた。 その頃の彼女は、全ての思いを包み隠し、正面から彼の顔を見る事が出来た。 彼女なりに全ての思い出を、心の片隅の小さな小箱にしまいこみ、鍵をかけていたのだ。 二次会へ流れる同僚から外れて、彼女は一人、いつもの店へと足を向けた。 彼との、純粋で、けれどもやはり切なかった思い出を一人密かにかみ締めるために。 この日ばかりは誰にも邪魔されたくは無かった。いつの間にか彼女は「狩り」を止めたのだ。彼女を口説こうとしていた男性たちも、いつしか彼女から静かに静かに離れていった。 ほのかに流れるスタンダードジャズに耳を傾けながら、淡いブルーの灯りの中で微かな笑みを湛えて冷たいグラスを頬に当てる。 その時、店の扉が開いた。 そこには逆光となった彼のシルエットが、彼女の目には、はっきりと映った。 ゆっくりと彼女のもとへと淀みなく歩みを進める。互いに目をそらすこと無く。そして彼女の傍らに立った彼は、 「扉を開ける勇気、出してみました」 あの夜と同じ、とろけるような微笑で彼は言った。その瞬間に、二人の空間は「あの頃」へと巻戻されてしまった。 彼は、彼女の隣に腰掛ける。その表情や姿には、わだかまり一つ見受けられなかった。 彼は、何気ない会話を、さりげなく語る。それは、事の始まりとなったホテルでの一夜のようでもある。 そんな空気を乱さないよう、彼女は出来る限り流れるように語った。 「あの頃――貴方が会社を辞めた頃、私のパソコンはネットワークに入れなくて、貴方からのメールを、すぐには読めなかったんです」 すると、彼は目を丸くして彼女の顔を見つめながら、 「そうだったんですか?」 と、驚いていた。そして彼は、しばしの沈黙のあと、木製のカウンターを見つめたまま、誰に聞かれるわけでもないのに、静かに続けた。 「彼女とは、別れたんです」と…… 「私は、本当はずっと貴女を見ていました」と…… 「貴女がくれた手紙、今でも取ってあります」と…… ――別れた? あの子と? あれほど幸せになってほしいと願ったのに……そんな事は言ってほしくなかった…… そんな結末では、あの頃に味わった苦悩はどうなるのだろう? あのやりきれないほどの思いや哀しみは、まるで意味のなさないものになるではないか? けれど、繰り返される彼の言葉。 「ずっと貴女を見てた」と…… 彼女の仮面が、崩れていく。コマ落ちしていく乱れた画面ように、「氷の女」でも無く「魅惑的な小悪魔」でも無く、一人の不運な女の顔になっていく。彼女の心が砕けていく―― 彼との予想外の再会からしばらく経って、彼女が私に語ってくれた。その夜の出来事と、その後の経緯を。 ――運命というのは皮肉なものね 泣き出しそうなのか、笑おうとしているのか判別のつかない表情を浮かべて彼女は静かに語っていた。 ――たとえお互いを思い合っていたとしても、結ばれない人と出会ってしまうという事はあるのよ…… 結局、彼女と彼は新しい未来を、思い出を作ること無く、それはまるでアルコールの気が抜けていくようなスピードで、二人は離れて行く事になっていったという。 私は聞いてみた。何故、その夜に彼はそんなことを言ったのか? どうして彼と結ばれる事はないのか? と。 しばし黙した後、彼女は目を伏せ小声で呟いた。 ――解らない。たぶん……やっぱり愛されてなかったのかな? ――これも、私が好き勝手に行動してきたしっぺ返しかもしれないわね 仮面を失くした彼女の顔は、哀しくなるほど孤独な女の顔だった。生々しい亀裂が入った硝子のような表情だった。 私は心の中で呟いた。彼女はそれでも彼の事を愛しているのかもしれないと。あれほどの思いをさせられながらも、忘れる事は出来ないのだと。もしくは彼の放った言葉が、再び彼女の心を彼へと向かわせてしまったのか。 それが、彼女の「愛し方」なのだろうか? 彼女がようやく辿り着いた「愛」なのだろうか……それは余りにも淋しすぎる。 それから数年後、彼女も会社を去っていった。 その一年後に私は彼女と再会した。彼女が会社を去ってからは、会う機会が無くなっていたのだ。 久しぶりに会った彼女はすっかり変わっていた。面差しばかりではなく、雰囲気さえも。 狩る女として跳躍していた頃の艶やかさは消え、必要以上に着飾る事を止め、大人の落ち着いた女性に見えた。けれど、眼差しはどんな時よりも暗かった。その瞳からは砕けた硝子の欠片を連想させられた。 私は、彼が結婚したという事を知っていた。しかも元の恋人と。その事を彼女に告げるべきかどうか迷った。彼女に「貴女を見ていた」なんて言葉を吐きながらも、その舌の根が乾かぬうちに、結局は元の恋人と結婚した彼の行動が許せなかった。けれど私は話してしまった。話さなければ良かったと、何度後悔しただろう。 やはり私は彼女の脆さを理解していなかった。彼の結婚を知れば、彼女もきっと立ち直るだろうと、また誤解をしていたのだ。 話を聞いた彼女は、ほんの少しホッとしたという。そしてそれと同じだけ、心が泣いた、とも言った。あの眼差しの暗さの意味を理解出来ずにいた私に。 ――ああ、これで本当に終わったのね。結構、長かった…… 溜め息のようなかすれる声で呟いた。 それと同時に、彼女自身が驚くほど、彼と過ごした短い日々が心で決して消える事の無い傷として刻まれていた事実に初めて気づいた、と語ってくれた。そして、 「私たちは、お互いに自分の逃げ場を探して、その場しのぎの癒しの相手を探して、そして現実から逃げようとしていただけだった」 ――心から愛されたことはあるかって聞かれた。一緒に探してたものならあった気がする―― 『尾崎豊 氏/「誰かのクラクション」より』 彼女は心から愛されたわけではなかったと言った。二人で「逃げ場」を探していたと。 もし本当に結ばれる二人だったのなら、「夢」を「未来」を「幸福」を探したはずだ。 けれど、二人は「逃げ場」しか探す事が出来なかった。それが現実なのだと。 しかし、彼女が不意に言葉にした「決して消える事の無い傷」という言葉の意味をもっともっと深く考えるべきだったのだ。私が彼女と会わずにいた一年の間に何を思い、彼の結婚を知った時、彼との全てを本当に「終わった」と感じていたのか。 その後、もう一度だけ彼女と会う機会があった。珍しく彼女の方から連絡をしてきたのだった。その時彼女は、一連の出来事の「後始末」をしてきたと言っていた。 それが、私が最後に見た彼女の姿であり、最後に聞いた声である。淡々と語る彼女は、薄っすらとした笑みを浮かべていた。何かを諦めたような、何かに絶望したような、硝子の欠片のような微笑を…… ある霧雨の降る夜。 彼女は、あの頃に勤めていた地へと足を赴けた。 すっかり姿を変えてしまった街だけれど、冷たい霧雨の降る夜に彼が立っていた店先は残っていた。 信号を待っている時に、ふとそこに彼がいるのではないか。また、とろけるような微笑を返してくれるのではないだろうか、と思ってしまったという。 ゆっくりと――ゆっくりと振り返る――スローモーション。 そこには、誰がいるわけでもなく、あの日と同じ冷たい雨が降っていただけ。 ただ一瞬、あの時と同じように雨に濡れた彼に、傘を差しかけながら歩み寄る彼女自身の姿が見えたような気がしたという。ほんの一瞬だったけれど…… 彼があの時、逃げる事に夢中になり、その後に待っている幸福を逃してしまう事なく、今では幸せに暮らしている事を願いながら、いつしか青に変わった信号を人波に紛れて一人駅へと向かった。 もう二度と、あの場所へ足を向けることは無いだろう。 ほんのわずかな思い出を、彼女は「あの街へ捨ててきた」と言っていた。それが「後始末」であると。 いつしか部屋の中は、すっかりと暗くなっていた。雨は止むこと無く降り続けている。 最後に彼女と話した日を境に、彼女とは連絡が取れなくなってしまった。自宅の電話だけでなく、携帯電話も解約されていた。 最後の日、私は見てしまった。彼女の定期入れの中にまだ、事の始まりとなったフェアでの最終日に写した、二人寄り添って笑っている写真がはさまれていたのを。 彼が結婚したという話を聞いた時、彼女は本当はどんな気持ちだったのだろう。少なくとも「本当に終わった」と言った彼女の言葉は嘘だった。その証拠があの写真だ。 彼女は、今でも彼との出来事を引きずっている。「狩り」ばかりを続けていて、本物の「恋愛」を知る事が出来なかった彼女が、ようやく出会えた「恋愛」に裏切られ、捨てられて、本当の恋人からも去られ、彼女を「小悪魔」ともてあそんでいた男性たちも去っていき、それでもまだ誰かを信じると言う事が出来るのだろうか。 そんな彼女に「自業自得だ」と言う人も多いだろう。けれど私は、そう思いたくは無い。 彼女が最後に言った「あの店先に彼がいるのではないか」という思いと「消える事の無い傷」を刻まれたままで、彼女が幸福になれる日が来るのだろうか。 彼女は砕けた硝子になってしまったのだろう。長い長い年月をかけて、彼女は砕け散ってしまったのだ。そんな彼女が幸福でいられるだろうか。 雨は降り続く。十数年前の夜のような霧雨ではないけれど、この季節は彼女が彼に恋をしてしまった季節である。どうしても私は思い出してしまうのだ。彼女と彼の歪んだ恋物語を。 そして電話のベルが鳴る度に私は勢い込んで受話器を取り上げる。彼女からの連絡だと信じて。 彼女が私の前から姿を消して、もうじき五年が過ぎようとしている。その間、私は何度も何度も電話のベルに裏切られているのだった。 多くの人たちが彼女から去っていったように、彼女は私の元から去っていった。 彼女が本当の「愛」を得ることが出来なかった長い年月が、彼女の過去に対する罰ならば。 彼女が去っていった事が、電話のベルに裏切られ続ける事が、彼女にとっての「親友」になれなかった私への罰なのだろう。 私はゆっくりと立ち上がり、そっとカーテンを閉めた。もう今日は雨など見たくは無い。 カップを手にして暗がりの中を手探りで歩いていく。狭い部屋の灯りのスイッチを入れると淡いオレンジ色に包まれる。そして、書棚に立て掛けられたフォトスタンドを手にした。 そこには、十数年前の彼女の笑顔が映っている。まだ陰りを知らない明るい笑顔。私の手元に残された、たった一つの彼女の欠片…… 彼女は今、この雨をどこで、どのような思いを抱えて眺めているのだろうか―― 彼女とお揃いのこのティーカップを、彼女は今でも持っているだろうか―― <了> |