「幸せなら手をたたこう」 榎浦 敬 笑顔のない家庭だった。 俺はパパがどんな仕事をしていたのか、ぜんぜん分からなかったし、今でもよく分かっていない。家にはマルクスとかレーニンとかって本がたくさんあって、時々オルグとかいう人がやってきてはプロレタリア階級がどうしたとか、闘争について話をしていた。パパを含めて、うちに来る人たちはみんな暗く、そして臭かった。パパに限って言えば、汗をかいて何かを産み出す仕事をしていたわけでもなく、何かを採ってくる仕事をしていたわけでもない、ということは分かるのだが、なんにしても我が家は貧乏だった。 俺はなんだか難しい言葉を並び立てて、誰かを批判することでしか存在感を示せないパパはうそつきだと思っていたし、ママは貧乏な生活をいつも誰かのせいにしている汚い奴だと思っていた。彼らは自分たちの言葉や行動に誇りを持っていて、それを俺にも誇示していたが、そんなものは俺にとって何の意味もなかった。 それは支配者階級の仕掛けた罠だ、という理由で流行のTVも漫画も見せてくれなかったし、消費文化に浸ることは堕落以外のナニモノでもない、という理由で駄菓子もおもちゃを買ってくれなかったのだが、本当は我が家が貧乏だったからだった。だから子供の頃の俺は、いつも誰かの持っている何かにしか興味がなかった。ロボットとかゲームとか、誰かの口に含んだアイスクリームとか。俺の手元にはいつも何もなく、誰かの手にはいつも何かがあった。 慎ましやかな生活を送るのが正しい人間で、そんな生活を皆が平等に送る社会こそが正しい社会なのだ、みたいな事をパパは言っていたけど、俺は言い訳にしか聞えなかったし、金が欲しかった。だからちょくちょく誰かの何かを盗んだり、金をくすねてはガムを買ったりチョコレートを買って自分の部屋に篭り、その味を楽しんでいた。 誰もが平等にあるべきだ、と言っていたパパは明らかに敗者だった。どんなに知識があり、どんなに正しいきれいごとを言っても、それが実現できなければ意味がないんだと、いつも思っていた。俺にとってはパパのきれいごとより、盗んだ金で買ったガムの方が上等だったし、そのガムに付いている当たりくじの方に夢を感じていた。勉強して新しい何かを習っても、それで何かが手に入るわけでもなく、運動会とか学芸会とかで何か結果が出たからといって、何かを感じることもなかった。 もちろん俺は周囲の嫌われ者だった。ゴミ男、泥棒、便所虫。付けられたあだ名は山ほどあったが、なんとも思わなかった。 俺は貧乏で汚らしくて、不細工だった。俺と周囲の連中が平等だったとしたら、彼らにはそのことが堪えられないだろうってことは理解できたから、それはしょうがないと思っていた。一度、ぶつけるつもりがない石礫が後頭部にあたってしまったことがあった。その怪我を見たパパが小学校に怒鳴り込んでからは、俺は学校で幽霊のように目に見えないような存在となってしまった。しかし嫌われてるってことは、ある意味で最高だった。体裁だとかっていう煩わしいものも、何にも気にしなくて良くなったからだ。 そんな俺の遊び相手といえば、虫だった。虫が好きだったわけではないし、その対象はカブトムシとかクワガタのようにデパートで値の付くものでもない。 俺は虫眼鏡で日光を集めて、名も知らぬ虫の目玉を焼いたり、羽や足をもぎ取ったりして、その様子を眺めていた。そして、毎日のように蟻を虐殺していた。俺は虫の中でもとりわけ蟻が嫌いだった。働き蟻なんて名付けられた単純な奴らは数ばかり多く、従順に思えるその行動は俺の嫌悪感を増幅させた。俺はホームセンターで蟻用の毒を盗んでは、奴らにその粉末の一辺を持たせ、巣に運ばせていた。そして最後には必ず女王蟻と呼ばれるヤツを見つけ出すために庭を掘り返していたが、一度も見つけ出すことができず、おかげでその遊びは長期にわたって続けることになってしまった。 中学生になってからは、つまらない盗みはしないようになっていた。それはガムやおもちゃのようなものを欲しいと思わなくなったからで、別のものが欲しいと感じるようになったからだ。それは性欲の処理をする対象だった。恋愛がしたいわけではない。だたそれを処理する手段が欲しかった。アダルトビデオをレンタルできるわけでもなく、そういうものを持っている友人がいるわけでもなかった。あるものといえば、盗んだエロ雑誌だけだったが、それよりもある妄想だけで、自分のベッドに毎日白いティッシュの花を咲かせていた。 その妄想の対象はママだったが、それはマザコンなんてきれいごとではなかった。性欲を覚えたきっかけがママだっただけだ。 今になって思えば、きれいごとを並び立て、稼ぎもない貧乏な夫婦の楽しみといえば性生活、それも歪んだ嗜好をひそかに楽しむしかなかったと理解できる。初めて目撃したのは小学校低学年の時だが、その頃はそれが何なのか分からないまま、ただその行為を眺め、疎外感だけを感じていた。 黒光りする動く器具を裸のママに押し付けるパパの姿や、呻き声を押し殺すママの姿。見るたびに感じていた孤独感が一変したのは中学一年の夏だった。 その夜はパパが出かけていて、帰りも遅かったのだが、俺が自分の部屋にいるとでも勘違いしたのか、ママは居間でオナニーを始めた。右手で胸を揉み、何かを持った左手を股間に押し付け、何の躊躇もなく大きな声で呻き声をあげ始めた。その姿を見た瞬間、俺はとうとう欲情し、同時に今まで感じたことのない怒りを覚えた。 それ以来、俺は毎晩、ママのあの姿を思い浮かべ、握り締めた自分のチンポを憎しみ上げながら擦っていた。それ以来、俺にとって性欲とは怒りと同時に感じるものとなってしまった。 「すまないが、少し手錠を緩めてくれないか」 「そのくらい、我慢するんだ」 「頼むよ。指の感覚が無くなってきたんだ」 毎晩オナニーばかりしていたあの数年が人生で最も幸せだったのかもしれない。しかし、その生活がパパやママが選んだ生活と同じだってことに気付いた俺は、そのことに苛立ちを覚えてからは、積極的に街をうろつくようになった。俺ができることといえば、盗みを働くことくらいで、その頃は欲しいものを盗むというより、金を得ることが目的となっていた。だから盗品を売りさばいては現金を溜め込み、学校で宝くじを売ったり、賭場を開くことで周囲の連中から金を稼いでいた。 中学生の年頃には、最後の一線を越えたように思える行為を躊躇いもなくすることである種の尊敬が得られるもので、そして盗みによる金もあったことで、俺の周囲には人が集まってきた。周囲に注目される存在になっても、その状況に浮かれる気にもならなかったし、何かを得た気分にも、何かを見つけた気分にもならなかった。 もちろん学校の鼻つまみ者となって、学校からはいろんな処分を受けたし、いろんな説教もうけたが、都合次第で意見がクルクル変わる先生達のきれいごとなんてどうせ嘘だと知っていたし、それで傷つくのは何かってことも判っていたから、全く耳を貸しはしなかった。 パパやママを含めた大人たちに見放された俺の行動は、エスカレートする一方となった。当然、不良少年に殴られたり、見知らぬ強面の男に拉致されたり、金を巻き上げられたりすることも多かったが、そんなことに何の苦痛も感じなかったし、怒りを感じることもなかった。そういう行為に俺は笑みさえ浮かべられたし、平然した姿を見せ付ければ見せ付けるほど、彼らの俺に対する行動は影を潜めていった。誰も俺の行為に口を挟まなくなっていったし、そしてまた俺の周囲から人が去って行った。しかしそんなことはどうでも良く、俺が怒りを感じたのは、めっきり目を合わせなくなったパパの態度と相変わらずのママの喘ぎ声であり、勃起したチンポから白い液体が発射される瞬間だけであった。 「ここで小便を漏らしても良いか?」 「黙っててくれ」 「良いのか?」 「好きにしろ」 きっかけが何かといわれたら、中学卒業後の進路を申告する書類の提出期限だったからとしか言いようがない。別に進路に関してパパやママと揉めていたわけでもないし、自分の進路に悩んでいたわけでもないが、その書類を提出するということがきっかけであったことは確かだった。しかし警察では面倒だから、進路で揉めたからだと言った。 確かにそれまでの数日間、この一枚の紙のせいでイライラしていたし、なんとなく欲求不満だった。パパは夜遅くまで帰ってこない日々が続いていたし、その分ママはオナニーの頻度が増し、正直、それには愛想が尽きるほどで、おかげでこのところはママを妄想してのオナニーに満足できなくなっていた。 深夜0時頃だった。俺は進路を申告する書類を白紙のまま食卓に置いた。まだ帰宅していなかったパパがどうにかするだろうとしか考えていなかったし、その日は久しぶりにオナニーをしたくなるほど、ママの喘ぎ声が激しく、すぐにでもパンツを下ろしたい気分だった。俺は自分の部屋でチンポを握り締め、いつものように始めたのだけれど、その日に限って、いつまでたってもママの声は止まず、俺もいつまでも射精できず、その間、ずっと進路についての意識が頭から離れなかった。早くイキたいという気持ちと、この先どうやって生きていこうかということが、頭の中を高速で交じり合い、気付いたときには金属バッドを握り締め、勃起したチンポを晒したまま、オナニーが佳境に入っていたママの背後に立っていて、俺は力いっぱいそれを振り下ろし、ざくろのように割れたママの頭を見た途端に、ママに向かって強烈な勢いで射精した。 その時の金属バッドの手ごたえは、体中の血が瞬時に入れ替わったかのような快感を伴い、俺の中に渦巻いていた何かがいっぺんに白紙に戻したように思えたし、未来に続く俺の生きる道を示したかのように思えた。もし、その直後にパパが帰ってこなかったら、俺はママの割れた頭蓋骨の中にいきり立った自分のチンポを押し付けていたかもしれない。しかし、俺はその光景を見た途端に玄関の方へ逃げ出したパパを追い、ママに向かって射精した瞬間に感じた一瞬を確信するために再びバッドを振り下ろした。その後、玄関に滅茶苦茶に飛び散ったパパの脳漿をしばらく眺めたが、俺は射精するどころか、精神的に静まって、なんとも心地よい、爽快な陶酔状態に陥って、警察が玄関を開けるまでの数時間をそこで静かに過ごしていた。 少年院での数年間は、俺にとっては重要な時間だった。射精後の様な爽快感と脱力感の中で、自分存在の輝きを感じながら静かに時間を過ごし、あの瞬間に感じたものの正体について考えていたのだが、うまく答えがまとまらなかった。 その代わり、パパとママの事件で満たされた欲望とは別の欲求が強まっていった。それは意外にも自己顕示欲だった。俺の人生で、そんなものを誇示しようと思ったことなどなかったのだが、俺が少年だという理由で名前が表に出なかったことと、類似の事件がすでに起きていたせいで、それほどのニュースにならなかったと知り、まるであの快感を世間の連中に薄められたように感じはじめていた。 更正というものを少年院は目論んでいたのだろうが、俺にとっては全く無意味だった。それまでの記憶をすべて消し去り、別の人間の記憶と入れ替えること以外に、俺の何かを変えることなど出来はしないだろうと思っていたし、そんなことをしてもらいたいとも考えていなかった。 産まれてきたのは仕方がないことだし、どうせ死ぬまであの快感を求め続けるだろう。一度知ってしまった欲望は膨らむばかりで、もちろんまともに死ぬことは許されはしない。それなら、そこに向かって死ぬまで走り続けるためにも、一発で大きな快感を手にして、名前を残し、無残な死体を世間に晒したい、そう思うようになったのだった。 目標を得たことで、俺は初めて何かを学ぼうという意欲が湧き、様々な勉強を優等生的に行った。反省をするための作文を創作することで知恵を身につけ、ママの代わりになるものをこの国の中で見つけるために社会の仕組みを学び、化学や物理の原理を習得し、自動車整備の授業によって工作機械の操作技術の基礎を身に付けた。 そうして退所後は、自動車整備の工場に住み込みで働いた。給料は安かったし、同僚との付き合いも殆どなかったが、そんなことはどうでも良かった。とにかくあの時のあの快感が味わいという一念だけで生きていた。そう、あの頃は快楽の対象を捜し求めていた期間でしかなく、壊すものなんて何でもいいって思っていた。どうせ壊れるのは自分だけだし、誰かを傷つけるつもりなんてなかった。 「ここから先の話は知ってるから」 「だからなんだ?」 「手首の感覚が・・・・・・」 「おまえの知っていることがすべてとは限らないだろ」 「少しだけ緩めてくれ。頼む」 密室で脳を働かせることで狂気は増せるが、街に出ないと何も見えてこないということは知っていた。毎晩、俺は欲望を満たしてくれる道具について考え、そこで出た答えであるプラスティック爆弾は手に入れていたけれど、ママの時の快感とパパの時の爽快感を同時に満たせるシチュエーションは見つからなかった。 言っておくが、俺は見知らぬ誰かを無差別に傷つけるということが目的ではなかった。別に言い訳をして、何かを守ろうなんて気はさらさらない。ただし、世間に対しての名前を欲していたし、進路の申告書のような意味を準備すべきだった。 彼が工場に車を持ち込んだ日は、日曜日だった。たまたまそこで爆弾の起爆装置の手入れをしていた俺は、故障した車を嫌な顔をせず直してやった。休日にもかかわらず修理をしてくれたことに男は感謝し、金を払おうとしたが、工場の売り上げに計上するのが面倒だったので、部品代だけを請求した。同乗していた綺麗な女性の手前だったからか、男達は金があるところを見せようと、急に自尊心を露にし、サングラスを外し、気取った仕草で俺のポケットに数万円をねじ込もうとしたが、俺は丁寧に断った。帰り際に、舌打ちしながら睨み付けてきた男の表情があまりにも滑稽だったのだが、その顔を週刊誌で見つけたとき、初めてその男が有名な歌手なのだと知った。 以来、彼の出ているテレビ番組やライブ映像を気にして見るようになったのだが、彼や彼の表現するものに何の魅力も感じはしなかった。音楽には詳しくはなくとも、明らかに彼らを支持する連中の知らない良質な音楽を乞食のように盗み取っているのは明らかで、そこに保険の外交員の発する甘言のような愛の詩を載せて歌っているだけだった。誰かの商売の上でしか成り立つことのない表現者のいかがわしさを支持する心理は全く理解できなかったが、TVやCM、街中に彼の音楽が満ち溢れていて、そのこともあって、しばらくの期間は彼の動向を注視していた。 そんな彼のライブ会場の前を通りかかったのは偶然だった。会場前を屯するのは殆どが若い女性で、みんな綺麗に着飾っており、そこは俺の人生で踏み込んだことのない空間だった。好奇心もあり、俺はたまたま声をかけてきたダフ屋に数万円を支払い、全く場違いな風貌のまま会場内に入った。 場内は、気味が悪いほど健全な熱気に包まれていて、爆音とともに始まったステージは、画面で見るものとさほど印象は変わらなかった。彼女達を先導する彼の口から溢れ出る言葉は、形は違えどもパパの口から発せられたきれいごとと同じだと確認した。それに向かって、光に群がる羽虫のように、女たちが操られるように無個性に手拍子を取っている。 徐々に彼女達の熱気を吸収した俺は、不意にここが自分の死に場所だと確信した。それは彼の軽薄な表現に熱狂する女たちの表情のせいだった。熱気自体に自発性を感じられず、集団への義務感に近い感情だけが渦巻いているとしか思えなかった。大はしゃぎする彼女たちの目に、本物の熱狂を感じ取れなかったのだ。ここは熱狂しなければいけない、と本能的に感じてしまう彼女たちは、主体的な価値判断を放棄することを仕込まれ、自分の人生のなかで本当の快楽を感じられなくなったのだ。そういう人間達の空気に包まれて、俺は幼い日の唯一の快楽を思い出した。 そう、俺はとうとう女王蟻を見つけてしまったのだった。彼は俺が探し続けた女王蟻だったのだ。働き蟻である彼女達の群れには、まるでパパが参加していたメーデーだか集会だかの参加者たちと同じ臭いがしたし、一体感を表現するために飛び跳ねたり手を突き上げたりする義務感に満ちた女たちの動きは、ゴムの器具を股間に押し付けるママの左手のように無様だった。完璧だった。あまりに完璧な光景に吐き気を覚えながらも、軽く欲情してしまっていた。 ライブ直後、熱気と笑顔に包まれながら俺は観客とともに拍手し、そして呟いた。また会いましょう、夏の夜空の下でまた会いましょう、飛び立つための羽が生えないうちに、と。喝采はやむことなく、俺もまた拍手をやめなかった。 5万人を収容した野球場でのライブ。数十万出して買った最前列付近のチケット以上に俺を興奮させるものはこの世にはもうないはずで、それをポケットの中でチンポと共に握り締めた俺は、駅の改札を抜ける頃からすでに勃起が治まらなかった。プラスティック爆弾は、雇われ警備員に見つけられるはずがないほど、精工に加工して靴やバッグに忍ばせていたし、自分を吹き飛ばすための爆弾二個をベルトや帽子に装填してあって、それらの重みはあの時の金属バッドと同様に俺を恍惚の彼岸へと誘った。 そこから先は断片的にしか覚えていない。会場の熱気が最高潮になった頃、俺は古武術マニアから買った暗器を握り締めてステージに駆け上がり、警備員を蹴散らし、彼らに囲まれる瞬間に最も小さな爆弾をステージで炸裂させ、その刹那に彼を捉え、喉元に暗器の先端を突き刺した。そして再度取り囲まれる前に爆弾の起爆スイッチを頭上に掲げ、観客席の通路に仕掛けていた5個の爆弾を同時に炸裂させた。 俺はパニックに陥った観客達の必死な眼差しに欲情しながらチンポを晒し、力いっぱいそれを擦り上げた。 「最高だったよ。あんなに気持ちの良いオナニーは2回目だ」 長谷川は後ろ手に填められた手錠の鎖を鳴らしながら、そう言って笑い、西本はその腹を蹴り上げて黙らせた。 西本は自宅に完成したばかりの地下室の換気扇を廻し、コンクリート臭とタバコの煙が吸い込まれていく様子を確認し、地下室の角にもたれかかっている長谷川の腹をもう一度蹴った。8坪ほどの密室を呻き声が包み、長谷川の対角で小便を漏らしている上村を見やった。 「この男を脱走させて、拉致したところで何も解決はしないでしょう。あなたにとっては不幸なだけだ」 「不幸? 娘を殺される以上の不幸がどこにあるんだ」 西本は上村にそう問いかけ、彼の脇まで移動してから、再び視線を長谷川に戻した。 「何であんたの娘は死んだんだ?」 長谷川は笑みを浮かべてそう尋ね、 「客席で起きた将棋倒しに巻き込まれたんですよ」 という上村の言葉を聞くか聞かないうちに、西本は上村の顔面を持っていた散弾銃で殴りつけた。 「弁護士の口はよく動くもんだな。人権擁護派の弁護士さんに発言は許していない」 「では、私は何のために」 「こんな男の人権を擁護する男だ。この状況を見た上で、今度は俺の弁護をしてもらいたくってね」 「そんな」 「俺はあんたに感謝してるんだ。こいつが死刑にならなかったってことは、俺にとっては願ってもないことだったからな」 「そんなことのために私は・・・・・・」 「こんなヤツが少年院から出され、死刑にもならないなら、俺がこいつを殺したとしても、あんたなら無罪にできるだろ」 西本は長谷川から視線を外さなかった。 「あなたのしていることは、法治社会で・・・・・・」 「黙れ」 西本は再び長谷川の方へ歩を進め、上村に背を向けた形で薄ら笑いを浮かべる長谷川の口に銃口を無造作に突っ込んだ。 「こいつの言葉を聞けてよかったよ。法廷でこいつに何も喋らせなかった理由がよく判ったよ」 「違う。君は間違ってる」 上村は換気扇の音にかき消されるほどの小声でそう言ったが、西本は振り返りもせずに、 「論理で解決するものはここには無いんだよ。そろそろそれを認めた方がいい。俺はこいつが憎いが、おまえは嫌いなんだ。その口から出てくる言葉をこれ以上聞かせないでくれ」 と言いながら、しゃがみこんで長谷川の顔を見つめ、鼻から息を二度短く漏らし、友好的な口調で言った。 「だがな、法廷でコイツの代弁者を務めたお前だからこそ、ひとつだけ聞かせてくれ」 「なんですか」 搾り出すように上村は声を発した。 「こいつは生きたいのかな。死にたいのかな」 西本は長谷川の顔を上村に晒し、上村は長谷川の表情を見て、絶句した。銃口で呼吸を遮られた長谷川は目を潤ませていて、その表情は命乞いをするようにも、恍惚の表情にも思える。 「さっきまでは殺すつもりでいたよ。だが、正直にいえば、判らなくなったよ」 上村は明らかに狂気に満ちた笑顔を見せる西本に怯えた。 「私刑も死刑もいけない事なんだよな」 西本は笑みを消した。 「今ここで殺せば俺の気持ちは晴れるかもしれないし、晴れないかもしれない。こうして気が向いた時にこいつを蹴り上げつづけ、殺すことなく完璧に廃人になるのを眺める方法もあるわけだ」 西本は長谷川の口から銃口を引き抜いて、上村に言った。 「こいつを殺すかどうかはこいつの代弁者、論理の権化であるおまえが決めろ。ただし選択肢は二つだ」 西本は上村に対して銃口を向けた。 「ひとつは、こいつを今ここで殺すということだ。もちろん俺が殺し、おまえは俺の弁護をする。無罪にならなかったら、おまえには死んでもらうという条件付きだ。もうひとつは、俺がこいつを死ぬまでここで飼いつづけるってことだ。それを選んだ場合は口封じのために、今すぐおまえを殺す」 その言葉を聞いた長谷川の嬌声が響き渡る中、西本は上村に冷たく言い放った。 「選べ」 |