「名探偵の退場にまつわるひともんちゃく」 作) 康 パトカーであるらしい白黒の車が、サイレンであるらしい反復する高低音を後に引きながら遠ざかっていく。それは事件の終わりを告げる、見慣れた光景である。名探偵はそれを眺めている。いつもなら次第に小さくなっていくその車の影と音とを冷めた気持ちで見送ったものであったが、今日ばかりはいくらかはやる心がそれに取って代わっているのに気付く。 「いやはや、いつもながら見事な推理ですな」 警部が驚嘆と尊敬の入り混じったため息をつく。これまでに何千、何百回となく聞いてきたおなじみの台詞である。 名探偵が答える。 「そんなことはありませんよ」 「いやいや、ご謙遜を」 そう言って両の手のひらを両肩の前のあたりに上向きに掲げている目の前の男――『警部』であるからには男であると思われる――の前頭部の表面にかすかに認められる凹凸の具合から、彼がどうやら笑顔であるらしいことが知れる。同時に、自分の言葉が謙遜とはもっともかけ離れたものであることにこの男が気付く可能性が、まったくのゼロであるらしいということも。 「あの狡猾で冷酷で恐ろしい殺人鬼を逮捕できたのも、すべて、あなたの名推理があったからこそというものですな」 『警部』であるところのこの男に何を言ったところでそれが伝わるはずはなく、何らの意味も成さない。名探偵は当然ながらそれを知っているし、困ったことに、もうひとつのことも知っている――知っていることと納得することとは全くの別物である、ということを。 ……名探偵は心の中で深い、真の意味でのため息をつく。 《だが》――思う。《それもこれが最後のはずだ》 名探偵は警部を正面に捉えて、いつもの様に、最高の笑顔――それは警部ではなく、自分に向けられた無数の視線たちを意識している――をつくり、いつもの様にこう締めくくってやる。 「ただ犯人がミスを犯した。私はそれに気付いただけのことです」 それを聞いた顔のない警部は、やはり顔のない警官たちが忙しく行き交う中で、とても満足そうに大きくうなずいた。 道路から勢いよく車庫に乗り入れた名探偵は、すばやくイグニッションを切ると車を降り、バタンと勢いよく運転席のドアを閉めた。ふと自分の車を眺めてみたが、その色と車種とを見て取ることは出来ない。……ただ、己の車であるとわかるばかりである。それを言うならここが屋根つきの車庫であるのか、それともただ砂利を敷いただけの月極駐車場であるのか、それすらも正確にはわからない。それは、あるいは、我が城たる事務所がオフィスビルの乱立する都心部の交差点脇一角にあるのか、それともいくらか寂れたような郊外の開けた土地に立っているのか(もしかしたら、遥かなシルクロードの途上、何十のラクダを連ねたキャラバン行商の立ち寄る砂漠のオアシスの近傍ですらあるかもしれない)という言い方も出来たかもしれないが、どちらにせよ名探偵の仕事とは関係がないということであった。 目の前の建物の外壁には大きな看板が設置してあり、それにはそっけない黒い文字でこう書かれているのが読み取れる。 『 探偵事務所』 その看板はここが間違いなく事件を取り扱う探偵の事務所であることを主張しているのだが、連絡先、住所電話番号FAX番号、宣伝文句その他一切の情報は書かれていない。看板業者の手落ちか広告費を倹約したかとも取れそうだが、実のところ、ここが他でもない名探偵の事務所であるのだから、こうでなければならないのだ。無論、名探偵はそのことを知っている。だからこれまで看板に手を加えたことは一度もない。看板に手を加えることが自らに与える影響を恐れたというより、別段の興味がなかったわけだが。本来名探偵が革新を好むたちではないのは周知の事実である。 ところで今日はスプレー塗料を買ってきた。 探偵は入り口の扉を開けて、事務所の中に滑り込んだ。 キィーー……ガチャ すぐに少し埃臭い空気が鼻をつく。 目の前にあるのは、特徴のない典型的な事務室に見える部屋である。白い壁に、クリーム色の床。そのよくある床仕上げ用板材の色は白単色の部屋という個性すら拒否しているようだ。そこに机がひとつとキャスター付きのオフィスチェアーがひとつ置かれている。これらは自分が使うためのものだろう。ソファーがひとつ――これは客人用と見える。窓は南向きにひとつあって、そこから夕日が斜めに差し込んでいる。夕日と思うのは、その日差しが赤橙色に熱を帯びて見えないでもないというのと、何より自分が今外から帰ってきたところだからだ。その論拠については、名探偵時間帯別事務所滞在頻度比較対照研究(特に早朝夕刻間において)の研究報告を待つまでもあるまい。 そう思ったところで、彼は自分がつい今し方まで外にいたにもかかわらず季節が明らかでないという事実に突き当たる。《なんてこった》 ああ、と小さく声を上げて、名探偵はソファーに身を投げ出し、ごろりと寝転んだ。そしてうつぶせになり、クッションに顔をうずめた。ソファーのクッションは硬いようでもあり、柔らかいようでもあった。 《私はいったい何なのだろう?》 それはすべてのなぞを解くことの出来る『名探偵』が、唯一解くことの出来ない難問であった。 そう。彼は名探偵である。彼こそは、というべきか。 彼はその鋭い洞察力と論理的思考をもって、古今東西、数え切れないほどの事件を解決してきた。何百、何千もの『謎』を暴き、何百、何千人もの『怪盗』『怪人』『連続殺人犯』と対決し、打ち破ってきた。それこそ、すべてを、である。それが彼の仕事であり、存在意義であった。そのためだけに存在しているといっても過言ではない、というか、まさにそうなのである。 名探偵はソファーのクッションから顔を上げた。ちょうど目の前の壁にカレンダーがかかっていたが、上部の絵が描かれているべきスペースは白紙であり、日付の数字はすべて抜け落ちていた。数字も曜日も記入されていない、縦横の基線の描く均等な格子の配列。それは彼にとって、彼の存在について象徴的である。 聾唖であるに者にとってサイレントムービーの世界が真実であり得るのと同様に、名探偵にとって“白紙”の世界は唯一の真実となり得たかもしれない。しかし、彼は彼が“名探偵”であるがために――繰り返すがそれが彼の仕事なのだ――自身と他者との違いに気付いていた。それと……自分の本当の仕事が何であるかということにも。 《だが、知っていることと納得することとは全く別物だよ、君……》 「あっ、お帰りなさい、名探偵」 事務所の奥の部屋にいたらしい助手君が姿を現した。……現したって?――言葉の奇妙さを思って名探偵はおかしがった。実際、『助手』君にいたっては『警部』よりひどい。『警部』や『警官』たちはパーソナルにはフラットな存在であれ、『制服』『警察手帳』『拳銃』のような記号を身につけていた。だが『助手』君は全く持って正体不明である。ソファーの上の名探偵からは助手君の全身が見えているわけなのだが、その姿はまるきりただの白い影としか認識できない。そもそも、君、であるのか、ちゃん、であるのかすら定かでない。『助手』はあまりに多義的でありすぎるのだ。 「ああ……た、ただいま」 名探偵は噴き出すのをこらえて返事をしようとしたが、うまくいかなかった。 「なんだか楽しそうですねぇ。いいことでもあったんですか?」 助手君(とりあえず君にしておくことにした)は名探偵が笑いの発作に見舞われている理由について勘違いをしていたが、その言葉は結果として事実を的確についていた。 「ああ……うぷ、ぷ……そう、そうなんだ」 「へえ」 助手君は慣れた手つきで二人分のコーヒー――あるいは紅茶か、まかり間違えばワインかマサラチャイかもしれない――をいれると、カップ(装飾もブランドマークもない、無特徴な白無地の陶製である)をテーブルの上に置き、いまだ発作でぴくぴく痙攣している名探偵の隣に腰掛けた。助手君が動くたびにその白影の境界がゆらゆら揺れて、まるで人型をしたヒトダマが歩いているみたいに見える。 「それっていったい、なんだったんですか?」 「ああ……ああ」 間歇的にしつこく付きまとう発作を何とか鎮めて、名探偵は一度深呼吸をした。 「ああ……よし、話してあげよう。今日はもう依頼人も来ないだろうからね」 そこでもう一度息をつき、少し腰を上げて座りなおしてから、名探偵は続けた。 「いや……来ないのは今日だけじゃないだろうな」 助手君がいぶかるような、困ったような顔をした――ようだった。 「どういうことですか? 依頼ならもう来てますよ。国内だけで二十一件。海外からのも合わせたら、今日の分だけでざっと百十二件も――」 名探偵が片手でさっとさえぎる仕草をした。助手君はぴたっとしゃべるのをやめる。そこからモードが切り替わったとでもいった具合に完全に静止し、揺らぎさえ見られない。 「そんなものは放っておけばいいんだ」 助手君はオアズケを申し渡された飼い犬のようにじっとしている。その白い前頭部から読み取れる感情の符号は全くのニュートラルである。 名探偵が続けて言った。 「そんなものは放っておけばいいんだ。それより僕の話を聞きたまえ」 「はい」スイッチを押されたように助手君が答える。 「よろしい」 名探偵はソファーから立ち上がり、テーブルを迂回すると、机の前においてある名探偵専用足車付事務用椅子をテーブルの傍まで引っ張ってきてそこに腰をすえた。 「では、改めて話してあげよう。だが、その前に……君は僕が誰だと思うかね?」 「名探偵です」助手君が素直に答える。 「そうだ。私は名探偵。その通り……ではそこでもうひとつ聞こう」 名探偵は天井に向けて立てた右手の人差し指を、念押しするように助手君のほうに軽く三度押し出しながら言った。 「『名探偵』とは、いったい、何だ?」 助手君がすぐさま答えた。 「あなたですよ、名探偵」 「ああ、なんとも君は鋭いな、助手君。まったく君こそが僕の代わりに事件に当たるべきだ。しかし、そういうことじゃない。僕は0歳の赤ん坊やアメリカ人のプロレスラーじゃないから、別に自分の名前を繰り返し人に呼ばせたいわけじゃないんだ。聞いているのはつまり、『名探偵』の役割は何か、ということだよ」 ほんの少しだけ考えてから、助手君がふたたび答えた。 「事件を解決する人です。特に、その、難しい事件を」 「なるほど」 そう言って、名探偵は軽く目を閉じた――そして再び開いたその目は、難事件解決の鍵となるトリックを証明してみせるときの、往年の名探偵のそれになっていた。 「なるほど、そうとも言える。確かにあるひとつの側面だ。そして、大方、傍目にはそう見えるだろうね。だが、それは本質じゃない。そうだな……じゃあ、例えば、『警部』はどうだ? 彼は警察だ。事件を解決する人じゃないかな?」 高揚した視線を激しく動かしながら雄弁に語る名探偵の姿はまるで、この場にいるはずの多くの聴衆に人間本性について説く古代ギリシアの弁論家のようにさえも見えた。 助手君が応じる。「警部は犯人を捕まえようとします、けど、たいていは失敗しますね」 「たいていじゃない。絶対、だ」名探偵は断定する。 「そりゃあいくらなんでも警部に失礼ですよ。あの人だって頑張ってるんですから」 そう言って助手君は眉根にしわを寄せたらしい。 「そうだよ」名探偵がこともなげに言う。「頑張るのが彼の仕事だ。熱心に空回りしたり、私の対抗馬としてクールに真相に迫って土壇場でしくじったり、その時々の彼なりの盛り上がる方法でね」 「……何のことかわかりません」 その言葉を聞いた名探偵の瞳に一瞬さびしそうな翳がよぎったが、それはすぐに過ぎ去った。 「君にはわからないだろう……決してわからないのさ。なぜなら君はいつもその物語の中に埋没してしまうのだからね、『警部』と同じように」 「全然わかりません。いったいどういうことなんですか?」助手君がいよいよ怪訝な顔をなったようだ。その何処とも知れぬ二つの目は、理解の出来ない不安にほとんど怯えていることだろう。 「今言っただろう? 僕がどんな風に説明したって、決して『助手』にはわかりっこないのさ。『助手』と『名探偵』は同じ世界に住んでいても、存在する次元がまったく違うんだよ。だから、僕が今君とこんな話をしていることだって、本当はまったく無意味なんだ。『助手』や『警部』は物語の中の住人。世界の構成要素。では『名探偵』は何か? その答えは“解説者”さ。僕たちの世界に群がる野次馬たちに対しての、ね。そのために僕はこちら側とあちら側の中間地帯にいる。君は僕が事件を解決すると言ったけど、僕が事件の真相を解明するのはいつもそれが終わってしまってからだ。それが“解決”と呼べるのか?」 名探偵の瞳に宿った高揚感は、すでにほとんど狂気と呼んだほうがふさわしいような様相を呈してきた。 「そう、僕は事件を解決したりしない。僕がなぞを解くのは――解いていいのは――すべて必要な犠牲が出てからだ。そもそもこの世界の被害を抑えることが、ここの人々を救うことが僕の役目じゃないからだ。僕はここに住んでいるのに……被害者たちを救うどころか、彼らの死を下衆な覗き屋たち好みに演出するためにのみ存在しているんだ。ある意味で、僕は登場人物ですらないかもしれない――ある、ひとつのテクニックさ。みんながそれを好む。みんなが、世界中で毎日それを書くんだ。だから僕らは毎日さまざまな記号のガラクタを体中にまぶしたくって、世界中の紙の上へ、世界中の原稿用紙に染み込んだインクの中へと出張するんだ。記号を全部取っ払っちまえば、わずかでも定形があるのは僕だけで、君たちはまったく真っ白の空っぽだ。そしてこの世界も、何もかも、みんな空っぽじゃないか!」 助手君は静止している。彼の表面にはもはやわずかな凹凸すらも見られない。その機能外の作用を受けたために、どうやら完全に虚脱してしまったようだ。 だがかまうものか、と名探偵は思う。もとより話し相手なんていなかったのだから。 「僕はもう長いこと独りぼっちだ」 助手君の痕跡を前に名探偵はつぶやく。 「僕はここを脱出する。それが出来ることを発見したんだ。僕が今日何をしてきたと思う?」 名探偵はテーブルの上に置いてあったカップに手を伸ばし右手に持つと、「レモンティーだ」と言った。カップを満たしていたなんだかわからない黒い液体が突然透き通り、優しい柑橘の香りがたちのぼった。 「僕は今まで、事件の起こる物語の中で『名探偵』がどれだけ大きな存在かってことをちゃんとわかってなかったよ。この役割が如何に神がかりを必要とするか、すぐに気付きそうなものなのにね。僕は僕らの世界を作る唯一のテクニックで、根幹だ。『名探偵』が間違った答えを出したりするかい?」 名探偵の口元が大きく歪み、凄まじい笑みを造り上げた。 「犯人を適当に……指名してやったんだ。“こいつが『殺人鬼』だ”ってね」 名探偵は事務所の屋根に上り、世界を見渡した。夕日の残渣が西(だろう、当然)の空に扇状に光を放射している他は、気持ちがいいほどに何も見えない。夕日が沈むべき山も、地平線水平線もない。頭上でオレンジに染め上がっているはずの雲もなく、空を識別させる色もない。眼下に広がるべき街も、あるにはあるのだが、それは総体としての『街』の存在感のみであって、家屋、道路、橋、標識、学校、公園、樹木、ビルディング、その間で運動する鉄道、自動車、自転車、原付、自動二輪、ここが農村地ならトラクターやコンバイン、それら当然世界に満ち満ちているべき各個別の構成要素はまったく認識できない。互いに溶け合い、集合体となり、しかも読み手がどうとでも取れるようなまっさらの紙粘土みたいな塊だ。空気の匂いも流れもなく、一切の音もなく、そんな時しばしば出現してくるあの耳鳴りも、今は不必要だから聞こえてこない。完全なる無色無声無味無臭無作用無感動の世界。 だが今、己の足の下には確かな質感がある。足を踏み鳴らせば、その振動が音になる。腕を振れば、その肌を空気がなでる。世界で唯一の例外が彼を取り巻いている。物語のなかに住みきれない名探偵は、たとえ幕間であっても完全に消え去るわけにはいかないのだ。これも『名探偵』の因果な定めのひとつである。しかし、誕生以来ひっきりなしに世界中を駆けずり回ってきた名探偵にとっては未知のことであり、新鮮だった。ここには現実がある。少なくとも、今この屋根の上の狭い範囲には。しかもそれは自分のためだけにあるのだ――屋根に上るためのはしごは事務所においてなかったのだが、庭に出たところに都合よく立てかけてあった。まるではじめからそこにあったとでもいうように。 《ならば、出来てもいいはずだ》 ふと思いついた名探偵は、大きく三度深呼吸をしてから一度ゴホンと咳払いをし、それからオペラ歌手のように気取って両腕を広げ、芝居がかった声を世界中に響かせた。 「光あれ」 ――その瞬間――空が変わった。無限の色彩が唐突に出現し、十億もの流星が一時に頭上を疾走したかと思うと、次の瞬間、そこには本当の蒼穹が広がっていた。傾いていたはずの太陽もいつの間にか中天にある。 ほとんど冗談のつもりだった名探偵は、あまりのことに言葉を失い立ち尽くした。飲み物や人間に干渉することは出来たが、まさか自分に〈創世記〉に登場する神の真似事が出来るとは思っていなかったのだ。 はるか上空まで奥行き深いグラデーションを見せ付ける青空は、未だ白いままの地上に比して不釣合いに生き生きとその現実的な存在を主張している。空の音としか言いようのない音までが聞こえてくるほどだ。 《こいつは本当に驚いたな……》 ――しかし、これなら確実だ……これほどであるなら、確実に望みは果たされよう。 名探偵は思わずほくそ笑んだ。 名探偵の望みはささやかである。ただ生活が欲しかった、同胞と共に過ごす、当たり前の生活が。『名探偵』ではなく、ただの一個の構成要素になりたかったのだ。『名探偵』は推理物の中にあって孤独であるばかりでなく、世界の外側から見れば、独り人間的である。それが何より悪かった。人間は、遅かれ早かれ、壊れるものだ。殊に絶対的な孤独にさらされた場合には、容易に。 ……実際、あんまりに過酷じゃないか。地獄とは何だ? 凄まじい苦悩と激痛。自分以外の人。それも然り……だが、本当の地獄とは孤独のうちに同じことを繰り返すことではなかろうか? いずれにせよ、もはや限界であった。 《――いよいよだ》 ここから逃げ出す方法。この言い方はうまくない。僕はこの世界の一部だし、僕が影響力を発揮できるのはこの世界の中だけだろうから、世界の外に出ることは不可能だ。……だけど問題はないよ。僕が逃げ出したいのはこの世界じゃなく、今の孤独からだから。それならば、他のアプローチの仕方もある。僕が変われないなら、世界の方が変わればいい。しかし、天地を創造し隣人たちを具現化できたとしても、それは単なる虚しい手遊びに過ぎない。僕は彼らの友人ではなく神になってしまう――それじゃダメだ。なら、どうするか? 関係を変えてやることにしたんだ。 僕とこの世界との、ね。 名探偵は身体中の筋肉が緊張するのを感じる。口の中が渇く。いよいよ解放のときがやってきた。 名探偵はゆっくりと唇を開く。肺から上ってきた呼気が声門をこする。 「僕、は……」 喉の空気が鉛みたいに感じる。 オーケー、硬くなるなよ。 大丈夫なはずだ。 だが声が震える。 「僕は……『名探偵』を辞める」 そう言い終わるのと同時に辺りを包みだした眩しい光の中、名探偵はそっと両目を閉じた――。 ……実際、最高に愉快な気分ってのは今のこれのことに違いないな。あはは。 今、目の前には建物がある。建物にはこれといって特徴がない。塀はなくて、道路の脇にガードレールと歩道を挟んでそのまま面している。白っぽい壁(新しくて汚れはない)。屋根は普通の瓦……フツーのやつだよ、よくある瓦色っての、なんていうか知らないけど。隣の狭い敷地に張り出す形に雨避けのついた駐車場があって、そこに白い乗用車が停まってる(高級車っぽくはないが、こいつもピッカピカの新品!)。 ただ、民家じゃないのはすぐにわかる。壁に看板がかかってるから。その簡単な看板の最初の三文字は塗り立てらしく見える。 『名探偵 探偵事務所』 馬鹿みたいだろ? けど、ホントのことなんだぜ、これ。 この場所は市中といえばそうだし郊外といえばそうともいえる感じ。周囲を見回すと、まず、適当にいろんな色の塀と家々の屋根が並んでるのが見えるのと、適当に店、喫茶店、通りの向うは商店街だし、コンビニとか自販機とかがあって、遠くには、あれ、デパートかな(屋根の上のボックス型の看板が見える)? 後は公園の木とか小学校の時計台、図書館も見える(『図書館』ってデッカイ文字が出てるし)、あ、あっちに交番もあるな、なんか詰め込みすぎみたいだけど、まあ、これも普通っちゃ普通? だな。多分、駅とか線路の踏み切りも近いんじゃないかな(飛び込み自殺に必要だろ?)、この様子だと。ま、とにかく、そんなとこ。 というわけで、ここは名探偵の事務所の前。そう、名探偵。彼は世界で唯一の名探偵だ。誰でも知ってる。もちろん、俺もよく知ってる。 俺? 俺、ここに用事があってきたんだ。……何って、ひとつしかないだろ? ここは名探偵の事務所だぜ。だけど、別に急ぎじゃないから、こうして事務所の正面の道路の真ん中から『名探偵 探偵事務所』を眺めてるってワケ。ここに来るのは初めてだし、多分二度も来ることはないと思うから。 時々通り過ぎる通行人たちは、様々な服装や装備で彼らの職業を主張している。スーツにネクタイのサラリーマン。エプロンのまま買い物に向かう主婦。杖を突いた白髪も薄い老人。カラーを詰めた学生服の真面目そうな高校生は曲がり角でトーストくわえた転校生と衝突し、片手に十個近い箱をのせて自転車をこぐ出前の蕎麦屋がバランスを崩して派手にひっくり返る。彼らは自分の役割に没頭し、俺の姿は目に入らないらしい。その上、実に滑稽なことに彼らはみんな同じ顔なのだ。 ――あ。車が来た。 黒い地味な乗用車。あれは警部の車だな。絶対に『警部』の警部の車だ。 俺にはわかる。 俺がどかないもんだから、警部の車が耳障りな軋みを上げて停まった。叩いたら埃が立ちそうな、年季の入ったポンコツだ。ブレーキにガタがきてるんだな、ちゃんと手入れしとけっての。 今、この道には二人以外誰もいない……当然のことだ。 ドアが開いて、のっそりと警部が降りてきた。あのトロくさい『警部』も、俺を見てさすがに不審そうな顔をしている。 「そんなところで何をしているんだ。その手に持っているのは……」 「お前の役割は今から変更だよ、警部」 それだけ言って両腕を持ち上げ「よっ」と上体に反動をつけると、煩わしい鳴き声を発している目の前の『犠牲者』の左肩口へ重い一撃をお見舞いし、臍の下まで一気に袈裟切りにしてやった。一瞬後に鈍い音がして、水袋が破裂したみたいに警部の身体から紅い血液が噴出し、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた内臓が裂けた腹腔からアスファルトの上にこぼれた。『犠牲者』としての役目を終えた警部君はひざをついて崩れ落ちた。 彼の名前が“警部”となったのは当然だ。本来描かれた物語の中において、登場人物には適当な仮の名前が与えられる決まりだが、今の彼を描いたのは『名探偵』だし、『名探偵』であった名探偵にとって警部は『警部』でしかなかったとなれば、そうなるしかあるまいさ。 俺はすべてを知っている。 ここは元『名探偵』が望んで作り出した、彼を包括する統一された物語世界だ。あらゆる多義性は失われ、他の物語同様、各々の構成要素はすべて一通りの意味を与えられている。彼のためのひとつの物語として、だが……うふふ……探偵物のテクニックでしかない彼の創造性なんてこんなもんだろうな。彼にリアルな記号は読めないんだ。『名探偵』としての役割を捨てて思い通りに作った世界の中でやっぱり“名探偵”をやるしかないなんて、なんだか皮肉じゃないか。 だが……大事な事実はひとつだ。 “名探偵”はもう『名探偵』じゃない。彼は自ら退場した。物語に埋もれてしまった彼に過去の神通力はない。ご都合主義の神通力は何も『名探偵』の専売特許じゃないぜ。繰り上げ当選ってやつもある。それに思い至らないほど彼が追い詰められていたんだとすれば、ご愁傷様――そしてザマアミロだ。 ……ふふ。小説から『名探偵』がいなくなったら、いったいどうなるだろうな。 ………… 足元で痙攣する肉塊を見下ろしながら、鮮血に染まった消火用の斧(映画なんかで扉を打ち破るときに使うあのでかいやつ、あれだ)を片手に持ち直した。斧なんかでこうも鮮やかに人間を切り裂けること自体が、今の自分の役割が何であるかを証明している。 こいつには始めから興味がない……俺の目的はすぐそこの事務所の中の一人の男だけ。俺の名付け親であり、別名・世界一の愚か者。そいつに用があるんだ。 腹の底で沸々とするものを感じる。現在の俺を支配する本性が歓喜している。もっと、ただひたすらに仕事を果たせと言っている。 自業自得だぜ、名探偵。あんたの周りに生来の犯罪者なんていないのは知っていただろうに、慰みに名もない俺を『殺人鬼』に指名したのはあんたなんだから。せめて『怪盗』が相手なら幾らかマシだったのにな。はは。 入り口に騒ぎを聞きつけた『助手』の助手君が現れて、悲鳴を上げ始めた。うるさいからすぐに黙らせてやろう。 さて、仕事に取り掛かろう、なぁに、全部すぐに済む。とても簡単に……そして誰も俺を捕まえることは出来ない。犯行の証拠、事実自体すら労せず闇に消すことが出来るだろう――その必要があったとして、ということだ。 『殺人鬼』が捕まり得るのは『名探偵』だけ、殺せないのも『名探偵』だけ。その『名探偵』、は、もういない。今や俺こそがこの世界の至上のテクニックとなったのだ。俺の他の奴らはみんな、ただの『犠牲者』でしかない。 ノープロブレム、あらゆる意味において。 でもそれってホントに本当? 完璧な、だが、退屈な世界の王……すると、俺もいずれは彼のように退場を望むだろうか? そうなるかもしれない。いや、必ずそのときは来るだろう。 しかし、それは今じゃない。 少なくとも今の気分は最高だ。俺がそんなざまになる前に、世界中の全部を皆殺しにするってのもいいかもな。 何にせよ、手始めは……。 熱っぽい興奮が湧き上がり、笑いとなって口からこぼれた。 はは、あはは。 事務所に踏み込み部屋の隅に彼を追い詰んで、「何故こんなことに?」と恐怖に震えるそいつに向かって最後にこう言ってやるんだ――ああ、ついでに野次馬たちも勝手に聞くがいい。 「ただあんたはヘマをやらかした。俺はちゃんとそれに気付いたぜ」 <了> |