舞台 / 拝島第一小学校周辺
季節 / 蝉時雨の炎夏
主な登場人物 /
トドロキ 5年2組
キシモト 5年2組
ミカド・アヤ 5年2組
ササキ 5年2組
カトウ 5年2組
ウシジマ 5年2組
ニシダ 男性教諭・5年2組担任
カガ家の犬 フレンチ・ブルドッグ
セ.犬、教科書→定規、キス
キシモトがやろうと誘った。
学校からの帰り道にあるカガさんちの犬を殺そうって。
「あの犬、俺が通るといつも吠えんだ」
キシモトの席はおれの前。ランドセルに教科書を詰めながら憎らしそうにいった。
だから殺そうと思ったのか。
「キシモトって、もしかして家で勉強してるの」
「なんで? してないよ」
「教科書持って帰ってるから」
「今日だけ。教科書の背中んとこでぶっ叩いてやろうと思って、あの犬」
「そういうこと。でも汚れない?」
と、おれが心配の言葉を口にしたところで、ふっといい匂いがした。みるとミカドがいた。いつのまにか学級委員長のミカドアヤが近くに来ていた。
碧色の眼をしている。たしか四年までは眼鏡だった。カラコンにかえたんだろう。
「あなタたち。聞こえたわよ」
「なんだよ」
キシモトは気まずそうにする。キシモトだけじゃない。クラスの男子のほとんどがミカドは苦手だった。なんていうんだろう、嫌っているというんじゃなくて、緊張するというか、とにかくうまく話せなくなる。そういう雰囲気がミカドにはあって。
キシモトはそのまま無視しようとしている。それをわかってか、ミカドはおれたちにもっと近づいていう。
「やめレば。ソんなこと」
いい匂い。ミカド、香水つけてんだ。小学生のくせに。化粧もしてる。髪染めて、お洒落な服着てる。
「なにが。なにもしねえって」
キシモトはミカドの顔をみないで怒ったようにいった。
「やメなさい。犬ヲ殺すなんて」
おれはミカドのふっくらした紅い唇だけをみて、その忠告を聞いていた。
「殺スなんていけないんだカら……」
音程っていうか発音っていうか、ミカドの話し言葉にはすこしおかしなところがあった。疲れているような、吐息がもれるような、感情がこもっているようないないような、よくわからないけど、変わっていた。
「聞いてルの。キシモトくん。トドろキくん」
「行こうぜ。トドロキ」
キシモトはミカドを無視した。
たぶんキシモトは、ミカドのことが好き。
「カ哀想なことしチゃだめよ……」
行くおれたちのうしろからミカドの声。
おれもけっこう好きだけど。
「ゥルルル、ル、ルゥ、ル……」
カガさんちのブルドッグはいつもよりも低い声で唸った。
今日はちょっとなにかが違うってことに気づいたのかもしれない。動物ってそういうのに敏感だから。
カガさんちはすごく大きな洋風の家で、芝生の地面の広い庭のまん中には噴水まであった。そこにこのブルドッグが鎖で繋がれている。
「だれもいないかな。カガさんち。いま。カーテン閉まってるね」
門があるけど鍵はかかってなかったから簡単に入ることができた。
「たぶんいない。いつも四時半頃帰る。おばさんが。で、こいつを家ん中いれる。あ、やっぱこれにしよ」
キシモトはランドセルから三十センチ定規を出した。木の。
「ウ、ウー、ウルル、ゥ……」
ブルドッグは低姿勢でキシモトを睨んでいる。
「あーむかつくな、こいつ。ちっこいくせに。犬のくせに。反抗的な態度とりやがって。ぶさいくなくせに」
そういってキシモトは定規を素振りする。
「ほんとうに殺すの?」
「殺すよ。決めたし」
いま思ったけど、キシモトってあんま笑わない。笑ったとこみたことあったっけ。ふと思った。なぜか。
「そういえばトドロキってミカドのこと好きだろ」
「べつに。なに、いきなり」
「ほんとうのこといえよ」
「好きなのはキシモトだろ」
「おれ、好きじゃねえよ。ササキとかイマイとか、みんな好きとかいってるけど」
「ウシジマも好きだと思うよ。よくミカドのことみてるし。休み時間とか」
「ふぅん。だってさ、おまえとミカドが階段でキスしてるとこみたってやついるぞ」
「だれ」
「だれって聞くってことは、ほんとうってことだな。好きじゃないとか嘘つきやがって」
「うるせえな。してないし。いいからはやく犬殺せよ。帰るよおれ」
「畜生」
キシモトは怒りをぶつけるかのようにして、三十センチ定規をカガさんちのブルドッグに向けて振りおろした。
「キァゥン」
犬は悲鳴のような高い声をあげた。
びっくりしてか、どこかへ走りだそうとしている。けれど鎖があるから、駆けだすたびに首がひっかかった。
そのうちその場をぐるぐる廻りはじめた。
「よけられた?」
キシモトの右手の定規をみた。先のカドのところに赤茶色のものがついていた。
「耳にかすった。つぎはしとめる」
みると、犬の三角形の耳の一部がすこし切れていた。はじかれた肉片か血がどこかに落ちてないか、みまわしてみたけどみつからなかった。
「クゥン、クゥンン……」
犬は動きまわるのをやめて、怯えたような声をだした。
「どっちからキスしたの」
「おれ。たしか」
「いままでに何回した」
「一回だけだって。そんときのこともよく憶えてないし」
「ミカド、嫌がらなかった?」
「最初はいやがったけど、そのうち」
「そのうち?」
「舌いれてきた。あいつから」
「うそ。意外に淫乱なんだ、ミカド」
「いんらんって?」
「知らないの?」
「ていうか、嘘だから。キスしたの」
「はあ? なにそれ。意味不明」
「それより、犬」
それからキシモトは十回以上、犬の頭を狙って定規を振りおろした。けど一回もちゃんとあたらなくて、頭や躯にかすり傷や切り傷をつけるだけだった。毛がぱらぱらと抜け落ちたり、たまに深く肉を裂いて、その傷口から血がでた。黒っぽい血だった。気づいたら犬は、左の後ろ足を引きずるようになっていた。
「まだ平気かな、時間。四時半。帰って来ちゃうかも」
「平気と思うけど。糞。この野郎、ちょろちょろ逃げやがって」
「そんな定規なんかじゃだめなんだって」
おれはそういった。けどきっと、殺すには思い切りが足りないのだと思う。
「教科書のがよかったかな、一番厚いやつ」
「どうだろ。ちゃんとあたれば効くだろうけど」
「今日はもういいや。もっと面白い殺し方考えてからまたやる」
「行こう」
と、キシモトに声をかけたときだった。
ふとみた、カガさんちの二階の窓のカーテンの端の隙間から、だれかがのぞいていたような気がした。
キシモトは気づかなかったみたいで、定規についた汚れを葉っぱで拭いていた。
「おれもミカドとキス、やってみようかな。あいつ、かわいいよなあ」
ソ.屋上の風、その後のキシモト、融けるアイス
キシモトが学校に来なくなったのは、それから三日後のことだった。
カガさん家の犬はあの日のつぎの日から、外に出されることはなくなっていた。考えてみればあたりまえだった。キシモトはすごく殺したがっていたみたいだった。たぶん中途半端だったのがよくなかったんだと思う。でもどうしたんだろ、キシモト。
その日の昼休み、給食を食べ終えたミカドがひとりで屋上にあがって行くのをみて、あとを追った。
屋上は風が強かった。そのせいか、ほかの生徒はいなかった。屋上では空が広く感じられた。
ミカドは危険防止のフェンスに手をかけ、フェンスの隙間から下をみていた。ワンピースの裾が風になびいている。
「委員長」
うしろからミカドに呼びかけた。
すこしびっくりしたような感じでミカドは振り向いた。
「トど……きク……」
はずれた音程、風に浚われる。
「なにしてんの」
「屋上、きもちいいカら。よク来るのよ」
ミカドの位置からだと校庭が見おろせる。昼休みは給食を食べ終わってから外で遊ぶやつがいる。うちのクラスも女子は教室でおしゃべりしてるやつが多いけど、男子は半分くらいがボールとかで遊ぶ。
「トドろキくんこそ、どうシたの」
「あのさ、キシモト、もう二ヶ月くらい学校来てないと思うんだけど、委員長、先生からなんか聞いてない」
ミカドは首を横に振った。
「心配ね……きシもとくん」
キシモトがなんで学校に来なくなったのか、だれも知らなかった。病気というだけで、いつ来るとか、先生は詳しく教えてくれなかった。
「今日、学校の帰り、キシモトんち行ってみようと思うんだけど、ミカドも行かない?」
「ソうね。あッ……」
強い突風が吹いてミカドの細い身体が横に振られた。
前髪をおさえながらミカドがいう。その声は途切れがちに聞こえる。
「行きま、シょう。キしモトくん、ち。お見舞、イ」
おれやキシモトとけっこう仲のいい、ササキとカトウも誘ったけど、サッカーがしたいからって断られた。
けっきょく二人で行くことになった。
「なんでキシモトのお見舞い、いっしょに。学級委員長だから? ミカド、キシモトのこと嫌いだと思ってた」
「心配だカらよ」
空は曇っていて、雨が降りそうだった。おれもミカドも傘を持ってなかった。蒸し暑かった。
蝉がよく鳴いていた。
お土産にアイスを買っていこうとミカドがいって、そうすることにした。カップのかき氷と棒のシャーベットアイスを適当に買った。とけないようにドライアイスを入れてもらった。おれは学校にはお金を持ってきてなくて、ミカドがだしてくれた。明日返すっていったら、いいのよとミカドはいった。ミカドの財布には、お札が十枚くらい入っているのがみえた。それもたぶん一万円札ばっか。
「その財布もしかしてブランドもの?」
「ソうよ」
「シャネル?」
「プらダ」
途中、カガさんちを通った。犬はやっぱりいなかった。もしかしたらあの犬、死んじゃったんじゃ。
一階にはシャッターが降りていて、二階の部屋にはカーテンがかかっていた。
おれはもう一度、犬からとれた肉片を歩きながら目で探してみた。なかった。
「そういえばミカド」
「?」
「あいつと、キシモトと――キスした? された?」
「ヘんなこといわなイで」
「したの? どっちなんだよ」
ミカドは黙った。唇は、今日は色がついてなかったけれど、なにかを塗っているらしく艶があった。濡れているみたいにずっと瑞々しかった。服は首元が逆三角形に大きく開いた黒いワンピースで、胸元は紐で結ばれていた。靴はこげ茶色のブーツだった。おれより背が高くなっていた。
横からみると睫毛が長くて、カールしていた。頸が汗で湿っているのがわかった。たまに髪をかきあげるとそのたびに金のピアスがみえた。白い耳たぶにちいさなほくろがあった。
キシモトの家は、学校から歩いて二十分くらいのとこにある団地だった。四階の一番奥だった。
チャイムがなかったから、ノックした。
反応はなかった。
「いないのかな」
おれがいうとミカドは首を傾げた。やがてなにかに気づいたように、
「なにカ聞こえる」と囁いた。
耳をすました。
玄関のドアの横にある、電気のメーターだけが音もなく回転していた。
「なにも聞こえない」
「ソう?」
ミカドはまた首を傾げた。
おれはもう一度ノックして、すみませーんと声をだした。
白いプラスチックのプレートに四〇六号室とあって、その下に消えかけたマジックの黒い字で「岸本」と書かれていた。それを眺めながらだれかが出てくるのを待った。
一分くらいしても玄関のドアが内側から開けられることはなく、返事もなかった。
もしかしたらと思って、玄関の横の小窓をひいてみた。
動いた。すこし窓が開いて隙間ができた。
わずかな隙間から片目で覗いた。動くなにかがみえた。
たぶんキシモトだった。服と背格好でなんとなくわかった。
顔に面影はなかった。
キシモトは右目に眼帯をしていた。あんなにあった黒い髪の毛がほとんどなくなっていて、頭の一部分が変色してみえた。顔に痣や傷がいくつもあって、いちばん目についたのは、口の両端から耳にかけてある縫ったような痕。
「どウしたの」
ミカドがそういった瞬間、声が届いたのか、キシモトと目が合った。おれはとっさに窓を閉めてしまった。
「いないんだよ。帰ろう」
団地を去る頃、蝉の鳴き声がまた聞こえてきた。
ジーィ、ジーィ、ジーィ……
帰り道、ミカドがアイスどうしようといっていた。ドライアイスがちいさくなっていて、アイスがとけはじめていたらしい。
ミカドのブラウスは汗で濡れて、肌にくっついていた。
おれは口をきかなかった。
タ.プール周辺、ミカドの風評
それから夏休みに入った。
暑い日が続いたから、冷房のきいた家の中でゲームをするか、水遊びをすることが多かった。何回もプールに行った。家族と海にも行って、ササキやウシジマたちと川に泳ぎに行ったりもした。
夏休みのあいだ、ミカドと会ったのは学校のプールで一回きりで、話はしなかった。おれも含めたクラスのみんながほとんど真黒に日焼けしていたのに、ミカドは白いままだった。
あいつは、その日の水泳指導をしていた担任のニシダに、人のあまりいないような隅っこのほうでなにか言われているのを前にもみたことがあった。そのときも、みんなが目を洗って着替えに戻ろうとしているのに、ミカドだけ呼びとめられて、水着のまま、肌を濡らしたまま、ニシダと一緒にプールの休憩室に入って行くのをみた。
なんだろうって気になったけど、ミカドは学級委員長で成績が良くてしっかりしたやつだったから、よく先生と個別で話をしている。そのときもそうだったのかもしれない。
夏休みは楽しくて、キシモトのことはほとんど忘れていた。またお見舞いに行こうとは思わなかった。それはキシモトと会うのがこわくてだったかもしれないし、面倒くさかっただけかもしれなかった。
楽しい夏休みもあとすこしで終り。宿題はまだ半分も済んでなかったけれど、今日も暑くてササキたちと市民プールに行った。
その帰り、ミカドの話がでた。
おれ、ササキ、カトウ、ウシジマ、というメンバーだった。ほんとうなら、この中にキシモトもいたかもしれない。
みんなミカドのことを気になっているから、ミカドのことは話題に出やすかったけど、その話ははじめて知った。
「え、ほんと? いつ」
ササキはコーラを飲みながら、
「昨日。学校にサッカーしに行くとき。学校の近くにでかい家あるじゃん。あそこ入ってった」
「庭に噴水のある家?」
「そうそ。あそこ。金持ちそうな」
「あの家、入ってくとこなら俺もみたことあるよ」
ウシジマが話に混じってきた。ウシジマの家はプールまで遠かったから自転車で来た。いまは歩きのおれたちに合わせてゆっくり自転車を漕いでいて、バランスをとりずらそうだった。
「えー。おれだけか。それ知らないの」
「俺もみたことないって」
と、カトウ。さっき駄菓子屋で買ったうまい棒をサクサク食べている。
「俺がみたのはけっこうまえだけどね。クラス換えがあってすぐの頃」
「ウシジマってまえもミカドと同じクラスだったよね。ひとりで入ってったの? ミカド」
「うん。ランドセルだったの憶えてるから、学校帰りだと思う」
「でもさ、あの家ってだれもいないんじゃないの? 四時半頃におばさんが帰ってくるって聞いたけど。普段はだれも」
「ぼさぼさ頭の大学生くらいのみたことあるよ。おれもジュース買おー」
といってウシジマは、ずっとふらふら運転をつづけていた自転車からとうとう降りた。そしてポケットからとりだしたコインを自動販売機に入れて迷わずコーラを選んだ。
「えー。男?」おれは訊く。
ウシジマがコーラの缶をあけると、ぷしゅーと炭酸がはじけた。ウシジマはコーラを飲む。ぷはーとおいしそうに息をはいて、
「男男。二回くらいある。眼鏡かけててきもいやつ。暗そうな。犬に餌やってた。そういえばあの犬、この頃みなくない」
「へー。そうなんだ。そういえばさ、ミカドんちって金持ちだったっけ」
犬のことやキシモトのことは黙っていた。いまはまだ、いわないほうがいい気がした。
「知らん。知らんけど、木造のぼろいアパート住んでるよ。あいつ。うちから近いとこの。そういえばササキ、ミカドに告白しないの?」
とウシジマがササキに振り向いていうと、今度はササキがウシジマに、
「おまえがしろよ。好きなんだろミカドのこと」
といい返した。
ふたりともコーラを手に持っている。カトウだけが飲み物なしで、無言でお菓子を食べていた。きっとカトウは、ミカドの話には興味がないのだと思った。
暑くて、つぎからつぎへと汗が顔に垂れてきた。おれも咽が渇いてコーラを買った。たくさんの蝉が鳴いていることに気がついた。
神社につながる石畳の両脇に植えられている大きな樹の列に蝉はいる。太い幹や枝葉に隠れたその奥にいる。何十匹、何百匹もの蝉がいる。鳴き声でわかる。油蝉だ。いっせいに鳴いている。土砂降りの雨のような、すごい音だった。
こういうのをたしか、蝉しぐれ――。
「暑いなあ」
カトウがつぶやいた。
チ.夏蝉たちの魅惑
つぎの日からミカドの監視をはじめた。夏休みはあと一週間で終わり。
ミカドの家の場所はウシジマから教えてもらった。多摩川から近い、二階建ての古いアパート。そこの上の階にミカドは住んでいるらしかった。
ミカドはいつもお洒落な服を着て、ブランドものの財布やお金をたくさん持っていたから、すごい金持ちなのかと思っていたけど、どうなんだろ。なんであいつあんなにお金持ってんだろう。親からもらっているのかな。
だいたい十時頃から五時くらいまでのあいだ見張った。
その時間帯のせいか、ミカドの家族らしき人が部屋を出入りするところをみかけることはなかった。
見張りは暑いし暇で、一日でやめたくなった。
たぶんそんなには続かないだろうけど、もうすこし頑張ってみようと思った。
けっきょくミカドは出てこなかった。部屋のなかにいるのかさえわからなかった。
二日目は水筒と携帯ゲーム機を持っていった。
やっぱりよく晴れた暑い日だった。汗がだらだら垂れてきた。明日はタオルを持ってこようと思った。
蝉が毎日のように鳴いていた。いったいなんのために鳴いているんだろう。おれもこんなところでなにをしているんだろう。
そのまま二日目も収穫なし。
帰り道、ふらふらしながら歩き、力の入らない首はがくりと上向き加減になる。まだ完全に陽が沈んでいない、明るい夏の夕暮れの空に、白い月が出ていた。空にとけこんでしまいそうな薄いちいさな月だった。紙でできているような、水が多すぎた絵の具で描かれているような、安っぽげな月。
食欲もあまりなくて、ぬるめのシャワーを浴びた。
布団に入って目を閉じてからも、一日中聞こえていた蝉の鳴き声が耳に残ってなかなか眠れなかった。
監視をはじめて三日目。とうとうミカドが外出した。
日陰に座り込んでゲームに熱中していたおれは、底の高いサンダルを履いたミカドが錆びた鉄の階段をカンカンカンと降りる音で気づいた。
おれは距離をあけてミカドのあとを追った。
ミカドはボタンにそってフリフリのついた長袖の白いブラウスを着ていて、暑いらしく袖をまくっていた。下はきつそうな感じの短いカーキ色のスカートを穿いていた。太股がほとんどみえていた。髪は頭の上で束ねていて、うしろからでもうなじと頸がみえた。
高校生や大人が履くような、踵が細くて高いサンダルが歩きにくいのか、ミカドの歩く速度は遅くて、おれはすぐに追いついてしまいそうになった。
けっきょくミカドは一度もうしろをふり返ることなく、そして予感していたとおり、ブルドッグの、あの大きな家のなかに入っていった。
庭に入って、窓から家のなかを覗けるかもしれないと思った。けど、あの日二階にみえた人影やキシモトのこと、ウシジマがいっていたことを思い出してやめておいた。
家のなかからはみえなそうなところに隠れて、ミカドが出てくるのを待つことにした。もしかしたらここはミカドの親戚か知り合いの家で、泊まるってこともあるかもしれなかったけど、暗くなるまで待ってみよう。
たぶん二時間くらいして夕方になった頃。木でできた重そうな玄関の扉が開いて、ミカドが出てきた。ひとりで。
やっとだ。おれは嬉しくなって飛び出していた。
ミカドはおれに気づかないですたすたと歩く。もう家に帰るのか、来た道をもどる。
あれ。なんか違うような。ミカドのうしろ姿をみて、そう感じた。
変に感じた正体はミカドの髪だった。入るまえはアップにして結んでいたのに、いまはほどかれてる。
「なにしてんの」
おれは背後からミカドに声をかけた。
「トどロキくン」
ミカドはおどろいたように目を見開いた。髪の色がいつもより――さっきまでより黒い気がした。
「なあ。なにしてたんだよ、あのうちで」
「しぃらナい」
髪が黒くみえるのは、濡れているからだ。ミカドの髪の毛はすこし濡れていて、毛先が束になっているところがあった。
「知り合いのうち?」
「そウよ。なんでもいイじゃない」
「この家に犬――」
そういうと、ミカドの目つきが一瞬きつくなった気がした。「いたよね、まえまで。ブルドッグ」
「しらナァい」
ミカドは顔をそむけた。
「ミカドのこと、みたってやついるよ。まだ犬がいるまえに、ここに入ってくおまえをみたってやつ」
ミカドは下を向いて黙りこんだ。細い首筋に滲む汗。濡れた髪。つややかな唇。潤んだ瞳。ミカドのどこもが湿ってるみたいだった。
「おまえ、なにしてんの?」
「しらナい」
「あっそう。じゃあね」
もういい。
おれは駆け出した。
「トどロキくン」
すぐにおれを呼ぶミカドの、めずらしく大きな声。振り向くと、ミカドはおれのすぐそばまできていた。
触れるくらい目の前に、ミカドの白い肌。碧の瞳。朱い唇。
いい匂いがした。でも、いつもの香水とは違う匂い。それはたぶんシャンプーの匂いだった。
「ネえ、」
後じさりするおれの手を冷たいなにかつまんだ。たぶんミカドの指。けどおれは下をみれない。ミカドの顔をみている。おれの鼻の高さくらいにミカドの口がある。唇がある。クラスの男子みんなが欲しがっている唇。
その唇がゆっくりとひらいて、白い歯がみえて、その奥に舌先がのぞいて――
「目を閉ジないで」
ミカドの顔がさらに接近して、目になにかが入った。反射的にすこし目を細めたけど、痛くはなかったから瞑りはしなかった。
最初、なにかわからなかった。
そのうちおれの眼球にミカドの舌が触れているのだとわかった。
痛くないから、たぶん白目のところ。すこしくすぐったかった。
左右の頬っぺたにミカドの冷たい両手が軽く添えられている。
ミカドの舌先がおれの目玉に。やわらかな肉と粘膜と唾液がおれの硬い眼球に。
ミカドがおれの眼を舐めている――
やさしく撫でるように、なにかを掬うようにうごめく。
鳥肌がたつのがわかった。
でも嫌じゃなかった。
肩や背中がぞくぞくして、腰や足の力が抜けそうだった。 身体は動かなくて、しばらくされるがままでいた。
やがて眼球に接していた舌が離れた。
「あっ……」
そう、おれが思わず声を洩らすのをみてミカドは目を細め、
「名残惜しそうにするのにね……」とかすれた声でいった。
そしてミカドはおれの耳元で、
「わたシのことハ……だレにもなにもいわナいで……」
耳にかかる吐息。
「キシモトくんみたいに、ナリタくナカッタラ」
と囁いて、おれの半開きの渇いた唇をミカドの真赤な舌がべろりと舐めた。
カガさんちの敷地を囲む壁に蝉がとまっていた。
顔を近づけた。片方の羽がなかった。破れた透明の羽。蝉は鳴いていなかった。
指を軽くあてると、腹をみせて堕ちた。
なにかを抱えるようにして内側に折れた枯れ枝のような六本の細い足は、気味の悪い腹の模様と相成って、あのときのキシモトを思い出させた。
気づくともうずいぶん遠くまで行っていたミカドのうしろ姿が、かげろうの向こう側でゆらめいていた。夏のじりじりとした陽射しが、油蝉の鳴き声といっしょくたになって降りそそいでいた。
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