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今夜の番組チェック

 

「鬼骨島」 作:松拳太郎


 私が鷲小見山道から下瀬戸港に降りていったのは、復員してまもなくの頃で、確か初夏のことだったと記憶している。それにしても東京から日を重ねて旅をし、こんなところまで釣り遊びに来るなどと云う変人は当時でも珍しいに違いない。私の実家は鎖国の時代から農民を搾取し続けてきた旧家で、人を苦しめることで莫大な財産を子孫に残してきた。日本が未だ戦後の混迷にある頃、そのすべてが生き残りの私のものになると、私は戦争呆けを言い訳にして定職にもつかず、放蕩し続ける毎日を送っていたのである。
 雑木林を縫うような埃道を歩き続けて峠に抜けると、突如視界が開け、狂おしいほど青く輝く内海が眼下に広がった。海面を撥ねる光量の多さに、私は目が眩んで思わず立ち止まった。もちろん、戦時中は南方にも行ったし、海そのものが珍しいわけでは決してない。しかし、瀬戸内の美しい海は、訪れるたびに私に新鮮な驚きを与える。
 しばらくの間息を整えながら峠の眺望を楽しんでいるた私は、ふと、背後から異様な香が漂ってくるのに気がついた。振り返って見て、それが日傘を差した和服の女だということがわかった。
 当時、和服は珍しくなかったが、決して山道を歩く格好とは云いがたい。雲に浮くような歩調が、なんとも不思議な雰囲気を漂わせていた。スワトーあたりの刺繍か、このような豪華な日傘は大陸でしか見かけたことはない。しかも、その陰から覗いたのは驚くほど美い顔だった。年はわからぬが、まだ娘のようにあどけない表情をしている。ただ、のっぺりと白い顔は毛穴が見えないほどの厚化粧で、赤い唇が妙に艶めいていた。
 香りは白粉の匂いである。子供の頃、母親の化粧箱をひっくり返したことがあるから、すぐにわかった。あの時と同じ匂い、しかも、強烈だった。
 女は不思議なことに、この炎天の中、汗ひとつかいていない。私はその女を不自然に凝視し続けていたのだろう。彼女は立ち止まり、はて、と云うふうに首をかしげた。
「いえ、なんでもありません」
 私がいたずらを云い訳する少年のようにそう答えると、女は気さくな笑顔を見せた。
「下瀬戸港までいらっしゃるのですか。私もそうです。女一人で歩くのは怖かったのですが、よろしければご一緒させてください」 
 私にとってその言葉もやはり小さな驚きだった。美女と肩を並べて歩くことなど久しく絶えてなかったことである。思いがけない展開に私の心は弾んだ。
 港はそこから峠を約一時間ほど歩いて下る。 
 旅はいい。時として、思わぬ僥倖にめぐり合う。道中、私は女に問われるままにいろいろなことを話した。
 御用は何ですか、という問いにはさすがに風来坊を気取ることもできずに困ってしまった。しかし、それも会話の端々から、ただの釣り遊びだと云うことが露呈してしまうと、後は気楽になった。女はにこやかに頷きながら、時折、品のいい声をあげて笑った。 
 港につくまでに私は多くのことをしゃべり、自分の知らない内面までも女に晒していたような気がする。ふと、相手のことは何一つ尋ねてもいないし、知ることもできなかったことに私は気づいた。まだ名前すら聞いていなかったのである。しかしその時にはもう、私の心は突然目の前に現れた彼女という存在の虜になっていた。
「今日中に尚島行きの定期船に乗るつもりでしたが……」
 山道から漁港の町に下り着いた頃に小雨が降ってきたのである。女が突然困ったような顔になった。この土地で、これほど急に天候が変化することは珍しい。
「尚島にお帰りですか」
「いえ、その途中の鬼骨島です。私ひとりだけの寄り道ですから、船長に無理は申せません」
 渡船場まで行ってみると、定期船は夕方の一便しかないそうで、おそらく今日はもう出ないと云うことだった。わずかの雨でも船が欠航になるのは、どうやら船主の気分の問題らしい。 
 宿は取ってある。今晩中に漁師から釣り場の情報を仕入れ、翌日、早朝には適当な渡船を借りてどこかの島に渡るつもりだった。
「そういうことでしたら、明日私がその島までお送りしましょう。どうせ、気ままな釣り遊びです。この近くに宿がありますが、女客の一人ぐらいどうにでもなりましょう」
 別に下心があるわけではなかったが、すでに私は、女から距離を置きたくない気持ちに囚われていた。それを気取られるのが怖くて女の目がまともに見えず、わざと渡船場の待合室の窓の外に向かって云った。
「お宿というのは?」
「あちらです」
 と、振り向きながら指差した指が、女の頬を突いた。
「あっ!」
 私は小さな叫び声を上げた。
 背後の女がこれほど近くに居るとは思いもしなかったのである。それにしても、珍妙な場面になった。待合室に誰も居なかったのがせめてもの幸いだった。
 私は慌ててその指を戻そうとしたが、すぐに白く柔らかな手がその上に重なって、包み込むように捕らわれた。女はやんわりと抵抗した。
 次の瞬間、女が私の指を口の中に含んだ。
 巾着のようにすぼまった赤い唇が、別の生き物のように蠕動し、私の人差し指をくわえたまま、ゆっくりと舐め上げた。その両目は陶酔するように閉じられて、長い睫毛がなまめかしく震えた。
 女の舌先が唾液の線を伝わせながら私の指を離れたとき、私は思わず、喉の奥を鳴らせていた。
 あれはどうしたことだったろう。夢魔に魅入られた瞬間だったのだろうか。
 私はひざの力が抜けたようになって、よろりと海が覗く窓にもたれ掛かった。いつの間にか雨脚が強くなり、窓の隙間からつぶてのような雨が私の顔面を打った。
「宿へ早く」
 と、女が急くように云った。
 その言葉で止まった時間が動き出し、私は夢から覚醒したようにひざを伸ばした。奇妙なことに、女の表情はもう変化している。
 何かを恐れて怯えている。そして何かを私の目からはぐらかそうとしている。
 彼女が恐れているのは、きっと雨に違いない。そのくらいのことはわかる。それがなぜなのか、聞いてもおそらく撥ね付けられるに決まっていた。
 私に理解できるのはそこまでだった。悦楽と云うにはあまりにも儚い一瞬の出来事に、まともな思考能力が眩んでしまったのかもしれなかった。


 宿は漁師町のはずれにある小さな旅館だったが、田舎によくあるそっけない接客が二人にとっては好都合だった。
 部屋へ通されて手ぬぐいを使っていると、外は車軸を流すような大雨になった。港町の風情も、容赦ない雨音と雨脚に煙って仄見えもしない。
 その夜、私たちは別々の部屋で眠った。もちろん、二人の間には何事もなかった。
 が、眠ったのか、眠っていないのか、強烈なおしろいの香りが夢とうつつの狭間に漂って、私の意識を混沌とさせ続けた。一日の出来事と母のあの白粉の記憶が絡み合って、何度も目が醒めた。
 ぬめるように頬を摩る手の暖かさに驚いて、最後に目を覚ましたとき、目の前にあの女が居た。
 寝巻きの胸元がわずかに乱れて、ひどくしどけなく思える。女は微笑んで、雨があがりましたから、と云った。私は否応なく床から出なければならなかった。
 こうして私たちは、未明から連れ立って宿を離れ、潮の匂いにおびき寄せられるようにして、港の方角へ降りた。 
 私はそこで、女を島へ送るだけのために無理を通して渡船を借り、海上に滑らせた。日が昇りきっていない黎明の海はベタ凪で波音さえなく、焼き玉エンジンの音がぽんぽんと響くだけである。無口で無愛想な船主は、わずかな航海灯の明かりだけで小さな船を器用に進ませた。
 鬼骨島は尚島港の遥かに沖を迂回して、さらに数キロ先にある小さな島だった。島までの航路はそれほどの時間ではないが、そのわずかな間にも、私はなぜか女との別れが名残惜しくて、身を切る思いに苛まれた。
 島はそそり立つ岸壁に囲まれ、東側にただ一箇所、庭ほどの小さな砂浜がある。渡船がゆっくりと島を半周し、その岸に着くと、女はすぐに砂浜に降りた。
 私の意識は、その時すでにどうかしていたらしい。声をかけるのも忘れて呆然としているばかりだったが、一方の彼女は何度も頭を下げて礼を述べ続けていた。その姿がひどくけなげに思えて、私の心にふいに不思議な感情が湧き出してきた。それは、戦後、気力が抜けたようになってしまった私が長い間忘れていたものだった。
「待ってください」
 と、叫ぶと涙が溢れそうになった。女はびっくりしたような顔をした。
「今がだめでも、いつかこの島へ迎えに来る。せめてあなたの名前だけでも教えてください」
 しかし女は、有難うございます、とだけ云って首を横に振った。
 私はその時、数人の島人が女の後ろに立っているのに初めて気づいた。彼らは無理やり私の視界に入り込み、慌てて彼女の手を引き、連れ去ろうとした。彼女はまったく抵抗しようとはしない。よく見ると、島人たちもその顔が異様に白く、無表情だった。
 どういうわけだ。
 私は頭がくらくらしていた。あの匂いだ。白粉の香。
 はっと我に帰ったとき、私は後ろから羽交い絞めにされていた。
「すぐに船に乗れ」
 船主がそう耳元で叫んだ。
「奴らは普通の人間じゃない。これ以上はいかん」
 そのうち、女と島民たちの姿が小さくなり、ついに視界の陰に隠れてしまった。
 引きずられるように船上に戻った私は、波に揺られながらもいつまでもあの海岸から目を逸らすことができなかった。ふと女の姿が現れ、手を振ったような気がして目をこすったが、すぐに涙でぼやけた。次から次に溢れ出す多量の感情が制御できなくなっている。
 そのうちに島は霞の上に浮かんでいるようにしか見えなくなった。すでに日は昇って、海上はきらきらと鏡のように輝いていた。
「あの白粉の匂い……」
「白粉の臭いじゃない」
 と、船主は怒鳴るように大声を出した。
「でも彼らの顔は……」
 と云いかけて私は言葉を飲み込んだ。頭が疼き、しばらく普通ではいられなくなった。
「シラコだよ……」
 と、船主がぼそりと呟いた。シラコとは、皮膚の色素が欠乏あるいは欠如している個体を言うらしい。
 下瀬戸の港に帰る途中、船主がぽつぽつと語った話によると、鬼骨島は昔、別の名を持つ無人島だったそうである。戦時中、軍の工場ができたそうで、今そこに住み着いているいくつかの家族は、もともと近くの島々から募集され工員として働いていた。彼らは陸軍軍属とされ、一時は羽振りもよかったそうだが、終戦と共に失業した。同時に本土やその他の島々の漁民からも疎まれ、居残ったということだ。
 さらに戦後、その工場が毒ガスを研究する化学工場だったということがわかった。当時、化学兵器は苦痛を伴わない人道兵器とされていたのである。
 鬼骨島は空気よりも比重の重い毒ガスに常に包まれているような島だった。女と島民たち家族は、長い間その中で生きてきた。


 東京に帰った私は、それから数ヵ月後、何気なく開いた新聞に奇妙な記事が出ているのに気がついた。
 瀬戸内のある港に異様な化け物の死骸が流れ着いたと云う。漁師たちはその姿を恐れ、すぐに焼き捨てた。それはきっとあの鬼骨島の島人の誰かではなかっただろうか。
 さらに数年が過ぎ、鬼骨島は再び無人島に戻ったと云う話を聞いた。
 毒ガスに狂わされた彼らの遺伝子を継ぐ者は絶えた。化粧をすることで透けた体を隠してしか生きていくことができなくなった人間たち。愛しい人……。
 それでよかったのだと願う自分の心を、今は呪うしかない。


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